しかすがのわたし
志香須賀の渡しは,承和2(835)年の太政官符に飽海(あくみ)川の渡しとあったところで,豊川(とよがわ)の渡しである。東海道の要衝にあたり,古来知られていたが,特に名高くなったのは,天暦8(954)年,村上天皇が皇太后藤原隠子の70の賀のために,内裏の屏風に,多くの名所とともにこの渡しを描き,その屏風絵を詠ませてからである。宝飯郡小坂井町平井に志香須賀の渡しであったことをうかがわせる「柏木濱」碑があり,対岸は豊橋市牟呂町境松であったと伝えられている。この双方の地点は直線距離で約4㎞あり,当時の河口部の広大さを示している。渡しの場所は1か所ではなく,川の流れの変化や中州の発達によって様々に変わっていったようである。豊橋市横須賀町や前芝(前島)町の地名は,中州の名残である。平安後期から鎌倉初期には,より安全な上流の豊川宿(豊川市)あたりを渡る者が多くなり,志香須賀の渡はさびれていった。
関連項目 - 飽海の渡し
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
志香須賀の渡しは,承和2(835)年の太政官符に飽海(あくみ)川の渡しとあったところで,豊川(とよがわ)の渡しである。東海道の要衝にあたり,古来知られていたが,特に名高くなったのは,天暦8(954)年,村上天皇が皇太后藤原隠子の70の賀のために,内裏の屏風に,多くの名所とともにこの渡しを描き,その屏風絵を詠ませてからである。宝飯郡小坂井町平井に志香須賀の渡しであったことをうかがわせる「柏木濱」碑があり,対岸は豊橋市牟呂町境松であったと伝えられている。この双方の地点は直線距離で約4㎞あり,当時の河口部の広大さを示している。渡しの場所は1か所ではなく,川の流れの変化や中州の発達によって様々に変わっていったようである。豊橋市横須賀町や前芝(前島)町の地名は,中州の名残である。平安後期から鎌倉初期には,より安全な上流の豊川宿(豊川市)あたりを渡る者が多くなり,志香須賀の渡はさびれていった。
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