しょうぎたいさんかじけん
彰義隊参加事件は,慶応4(1868)年5月15日の上野の戦いに,吉田(豊橋)藩士30余人が脱藩して彰義隊に参加した事件である。吉田藩主大河内家は,松平姓を許され老中を勤めたこともある譜代大名で,とりわけ当主信古(のぶひさ)は,安政の大獄で辣腕(らつわん)をふるった間部詮勝(まなべあきかつ)の2男で,文久2(1862)年から2年間大坂城代を勤めた。また支藩の大多喜藩主で実弟の大河内正質は,鳥羽伏見の戦いに,老中格として参戦した。信古も前年の慶応3(1867)年12月,幕府の命に応じ藩士100人を連れて幕府の新鋭艦翔鶴丸で上坂し,大坂城京橋口の警護に当たった。幕府方の敗北により藩論は大きく揺らぎ,時流のおもむくままに官軍方につくこととなったが,底流には佐幕論が根強く残っていたと思われる。そうした中で起こった事件である。
脱藩した吉田藩士が上野でどのように戦ったかは不詳であるが,不忍池のほとりにあった吉田藩下屋敷周辺の谷中口および根津口を守備したようである。敗北後多くは,数か月の逃避行を経て,その年の暮れまでには自訴し,揚(あが)り屋(や)入りを命ぜられたが,明治2(1869)年初頭には,赦免(しゃめん)された。中には箱館五稜郭(ごりょうかく)まで行った者が3人もいた。参加者が記した手記で判明しているのは次の3人である。石川證平「説夢録」・長谷川新蔵「過去の夢」・春田道之助「手記」。
関連項目 - 「幕末美少年録」(長谷川伸)
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
彰義隊参加事件は,慶応4(1868)年5月15日の上野の戦いに,吉田(豊橋)藩士30余人が脱藩して彰義隊に参加した事件である。吉田藩主大河内家は,松平姓を許され老中を勤めたこともある譜代大名で,とりわけ当主信古(のぶひさ)は,安政の大獄で辣腕(らつわん)をふるった間部詮勝(まなべあきかつ)の2男で,文久2(1862)年から2年間大坂城代を勤めた。また支藩の大多喜藩主で実弟の大河内正質は,鳥羽伏見の戦いに,老中格として参戦した。信古も前年の慶応3(1867)年12月,幕府の命に応じ藩士100人を連れて幕府の新鋭艦翔鶴丸で上坂し,大坂城京橋口の警護に当たった。幕府方の敗北により藩論は大きく揺らぎ,時流のおもむくままに官軍方につくこととなったが,底流には佐幕論が根強く残っていたと思われる。そうした中で起こった事件である。
脱藩した吉田藩士が上野でどのように戦ったかは不詳であるが,不忍池のほとりにあった吉田藩下屋敷周辺の谷中口および根津口を守備したようである。敗北後多くは,数か月の逃避行を経て,その年の暮れまでには自訴し,揚(あが)り屋(や)入りを命ぜられたが,明治2(1869)年初頭には,赦免(しゃめん)された。中には箱館五稜郭(ごりょうかく)まで行った者が3人もいた。参加者が記した手記で判明しているのは次の3人である。石川證平「説夢録」・長谷川新蔵「過去の夢」・春田道之助「手記」。
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