こうしんこう
庚申講は,60日ごとにめぐってくる「庚申(かのえさる)の日」に庚申仲間の人々が一堂に会し,共同飲食しながら徹夜で語り明かす行事である。庚申の夜は,眠ると人体に潜む三尸(し)という虫が天に登り,天帝にその人の罪を告げるため,夜は起き明かして三尸が体外へ出ないよう謹慎する風習である。平安時代,貴族の間で行われてきたが,民間で日待ち,月待ちとの習俗と結合し,庚申講の仲間が組織されるようになり,江戸初期以降全国に広まった。
吉田(豊橋)では,寛文年間(1661~1673)以降盛んになったといわれるが,庚申堂については「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)によると,吉田領内(八名,宝飯,渥美の3郡)の95か村のうち,庚申堂がある村は6か村しかなかった。しかし,庚申塔については年々盛んに作られ,現在市内には100基に余る庚申塔が建っている。そのうち最古のものは,大津村(豊橋老津町)にある寛文7(1667)年のものである。豊橋市下条町・牟呂町の組の中では,現在でも回数は少なくなっているが,庚申講が行われている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
庚申講は,60日ごとにめぐってくる「庚申(かのえさる)の日」に庚申仲間の人々が一堂に会し,共同飲食しながら徹夜で語り明かす行事である。庚申の夜は,眠ると人体に潜む三尸(し)という虫が天に登り,天帝にその人の罪を告げるため,夜は起き明かして三尸が体外へ出ないよう謹慎する風習である。平安時代,貴族の間で行われてきたが,民間で日待ち,月待ちとの習俗と結合し,庚申講の仲間が組織されるようになり,江戸初期以降全国に広まった。
吉田(豊橋)では,寛文年間(1661~1673)以降盛んになったといわれるが,庚申堂については「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)によると,吉田領内(八名,宝飯,渥美の3郡)の95か村のうち,庚申堂がある村は6か村しかなかった。しかし,庚申塔については年々盛んに作られ,現在市内には100基に余る庚申塔が建っている。そのうち最古のものは,大津村(豊橋老津町)にある寛文7(1667)年のものである。豊橋市下条町・牟呂町の組の中では,現在でも回数は少なくなっているが,庚申講が行われている。
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