すせじゅく
嵩山は,江戸時代を通じて吉田(豊橋)藩領の村で,石高は慶長9(1604)年に599石余,天保5(1834)年には692石余であった。正徳2(1712)年の「嵩山村御指出帳」によると家数158軒,人数855人で,椿実3斗8升5合,石灰96俵を産出する村であった。村内を東海道の付属街道である本坂通(ほんざかどおり)(通称「姫街道」)が通っていたため,大名行列などの人馬の継立を行う機能も有していた。
宝永4(1707)年10月に起こった大地震により東海道の新居宿と舞坂宿を結ぶ今切の渡しも通行不能となった。大名行列などの旅行者が本坂通に集中した。人馬継立の急増に耐えかね,宝永5(1708)年吉田藩役所へ本坂通の通行差し止めを願い出るとともに,他の宿場とともに幕府道中奉行所へも同様の訴えを行った。幕府は本坂通の通行を禁止したが,渡船の危険を避ける旅人の通行は続き,明和元(1764)年には嵩山宿・三ヶ日宿・気賀宿は道中奉行所より本坂通の正式な宿場として指定された。
天保14(1843)年の「本坂通宿村大概帳」には,宿内町並東西5町50間(約640m),人数580人,家数130軒,本陣1軒,脇本陣なし,旅籠屋なし,問屋場なしとなっているが,本陣とは名前ばかりで名主宅を兼用しており,問屋場も定まった家はなく,重要な通行がある場合にのみ農家を問屋場として使用していると記している。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
嵩山は,江戸時代を通じて吉田(豊橋)藩領の村で,石高は慶長9(1604)年に599石余,天保5(1834)年には692石余であった。正徳2(1712)年の「嵩山村御指出帳」によると家数158軒,人数855人で,椿実3斗8升5合,石灰96俵を産出する村であった。村内を東海道の付属街道である本坂通(ほんざかどおり)(通称「姫街道」)が通っていたため,大名行列などの人馬の継立を行う機能も有していた。
宝永4(1707)年10月に起こった大地震により東海道の新居宿と舞坂宿を結ぶ今切の渡しも通行不能となった。大名行列などの旅行者が本坂通に集中した。人馬継立の急増に耐えかね,宝永5(1708)年吉田藩役所へ本坂通の通行差し止めを願い出るとともに,他の宿場とともに幕府道中奉行所へも同様の訴えを行った。幕府は本坂通の通行を禁止したが,渡船の危険を避ける旅人の通行は続き,明和元(1764)年には嵩山宿・三ヶ日宿・気賀宿は道中奉行所より本坂通の正式な宿場として指定された。
天保14(1843)年の「本坂通宿村大概帳」には,宿内町並東西5町50間(約640m),人数580人,家数130軒,本陣1軒,脇本陣なし,旅籠屋なし,問屋場なしとなっているが,本陣とは名前ばかりで名主宅を兼用しており,問屋場も定まった家はなく,重要な通行がある場合にのみ農家を問屋場として使用していると記している。
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