やまだ・そうへん(1627頃~1708)

 山田宗へん,本名周学は,京都二本松(上京区)の出身(「参河名所図絵」には,渥美郡大草村の生まれとある)で東本願寺の末寺長徳寺5世を継いだ。初名を周覚,宗円といい,生来茶を好み,6歳にして小堀遠州に師事する。18歳の時,千宗旦に入門した。26歳で宗旦から皆伝を授けられ不審庵(ふしんあん)・今日庵(こんにちあん)の号を用いることを許された。

 宗へんが,明暦元(1655)年,26歳の時,吉田(豊橋)城主小笠原忠知に召し抱えられ,吉田藩茶道方となる。30石5人扶持を給されて,43年間にわたり,藩士・町民に茶道を教授した。茶事に関する自作の道具も多く,吉田城主小笠原家の菩提寺である臨済寺(豊橋市東田町)所蔵の花入「黒塚」は名作である。宗へんの作庭としては,臨済寺の枯山水・草庵式露地の庭園や,湊町神明社(豊橋市)の池泉回遊式蓬莱庭園がある。

 元禄10(1697)年,吉田城主小笠原長重が武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)に移封の際,仕官を2世宗引に譲り,江戸に下って本所二丁目に居を構え,利休正伝の侘(わび)茶を広めた。編著として,「茶道便蒙抄」5巻,「茶道要録」2巻,「茶道具図絵」1巻がある。宗へんの住居跡とされる場所(豊橋公園)に「山田宗へん邸地」の記念碑が建てられている。宝永5(1708)年4月2日,江戸で82歳で没した。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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