やまざき・しんたろう(1861~1935)
山崎新太郎は,文久元(1861)年3月10日,出羽国南置賜郡元馬喰町(米沢市)で米沢藩士山崎新作の長男として生まれた。明治7(1874)年,興譲館(米沢藩校)へ入学し,同12(79)年,選抜貸費生として上京,慶応義塾で学ぶ。帰郷後,米沢中学校首座教諭を経て,明治21(1888)年,オハイオ州のウェスレアン大学で哲学・心理学などを修得した。帰国後は,東京高等師範学校・女子高等師範学校教授を嘱託された。明治26(1893)年,福島県第一尋常中学校に転じ,同33(1900)年9月3日,愛知県第四中学校(豊橋中学校)長に任ぜられた。着任早々教員相互の派閥関係を解消し,校舎を新築移転した。24年間の在任中はもっぱら中等教育の充実に尽力し,愛知県第四中学校の一時代を築いた。教育方針としては,知・徳・体のうち特に徳育を重視し,教職員と生徒の指導の中心にすえた。著書に,「回想録」のほか,明治35(1902)年から毎年校友会誌に「教育学の原理」「日本教育論」「国家的精神の涵養(かんよう)」などの論文を掲載し,大正14(1925)年の退職時まで継続した。昭和10(1935)年3月26日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
山崎新太郎は,文久元(1861)年3月10日,出羽国南置賜郡元馬喰町(米沢市)で米沢藩士山崎新作の長男として生まれた。明治7(1874)年,興譲館(米沢藩校)へ入学し,同12(79)年,選抜貸費生として上京,慶応義塾で学ぶ。帰郷後,米沢中学校首座教諭を経て,明治21(1888)年,オハイオ州のウェスレアン大学で哲学・心理学などを修得した。帰国後は,東京高等師範学校・女子高等師範学校教授を嘱託された。明治26(1893)年,福島県第一尋常中学校に転じ,同33(1900)年9月3日,愛知県第四中学校(豊橋中学校)長に任ぜられた。着任早々教員相互の派閥関係を解消し,校舎を新築移転した。24年間の在任中はもっぱら中等教育の充実に尽力し,愛知県第四中学校の一時代を築いた。教育方針としては,知・徳・体のうち特に徳育を重視し,教職員と生徒の指導の中心にすえた。著書に,「回想録」のほか,明治35(1902)年から毎年校友会誌に「教育学の原理」「日本教育論」「国家的精神の涵養(かんよう)」などの論文を掲載し,大正14(1925)年の退職時まで継続した。昭和10(1935)年3月26日,没した。
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