おがさわら・ただとも(1599~1663)

 小笠原忠知は,正保2(1645)年,水野忠善(ただよし)が岡崎に転封した後,豊後杵築(きつき)(杵築市)から吉田(豊橋)4万5000石に入封した。承応3(1654)年向山大池を造り,吉田城外堀に水を入れ,下水道を造った。明暦元(1655)年,山田宗へんを招いて吉田に宗へん流茶道を広めた。吉田城主としては,奏者番・日光例祭奉行・鳳来寺山東照宮造営などを勤めた。明暦3(1657)年江戸の振袖火事に際しては,府内の巡視・警備にあたった。寛文元(1661)年職を辞し雁間詰となり,同3(63)年7月29日,江戸で没した。

 小笠原長矩(ながのり)(1624~78)は,寛永元(1624)年に生まれた。寛文3(1663)年,父・小笠原忠知の遺領を継いだ。相続と同時に弟・長定に3000石,同長秋に2000石を分知し,自らは4万石を領した。小笠原忠知は豊後杵築より菩提寺玄宗寺を飽海(あくみ)(豊橋市飽海町)に移したが,小笠原長矩は,寛文4(1664)年玄宗寺を仁連木(にれんぎ)村(豊橋市東田(あずまだ)町)に移し,寺号を万年山臨済寺と改めた。小笠原長矩は,父と同様に奏者番となり,寛文6(1666)年寺社奉行を命ぜられた。延宝6(1678)年2月8日,没した。

 小笠原長祐(ながすけ)(1644~90)は,正保元(1644)年4月7日,江戸で小笠原長矩の長男として生まれた。延宝6(1678)年,父の遺領を継いだ。定府中は諸門の警備・紅葉山その他の火の番などを勤めたが,貞享元(1684)年から健康がすぐれず,翌2(85)年弟・長重を養子とした。元禄3(1690)年6月17日,没した。

 小笠原長重(ながしげ)(1650~1732)は,慶安3(1650)年5月7日,小笠原長祐の弟に生まれた。元禄3(1690)年兄・小笠原長祐の跡を継いだ。奏者番・寺社奉行を経て,元禄4(1691)年,京都所司代,同10(97)年,老中となり,1万石の加増を受け,武蔵国岩槻(いわつき)(埼玉県岩槻市)に転封した。享保17(1732)年8月1日,没した。小笠原家は,その後転封を重ね,肥前唐津で明治維新を迎えた。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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