こくぼ・ひこじゅうろう(1845~1918)
小久保彦十郎は,弘化2(1845)年3月29日,吉田魚町(豊橋)の油屋小久保彦十郎の子として生まれた。謡曲は宝生流をよくした。廃藩置県によって吉田藩主大河内家より,能面・能衣装が豊橋魚町に譲渡された。明治6(1873)年学区取締となり,小学校設立に尽力した。養蚕業の普及奨励を志し,蚕種製造業を創設した。豊橋藩士柴田豊水・遊佐応らと共同して,明治11(1878)年豊橋東八町に座繰(ざぐり)製糸業を創立したが,多大の欠損を生じ,廃業の止むなきに至った。
明治19(1886)年青森県弘前に移住し,山桑を利用して養蚕を企てたが,失敗した。そこでりんごの栽培を志し,津軽郡小沢村(弘前市)の萱野30町歩を開墾して成功した。明治34(1901)年,外国へも輸出されるようになった。また,明治34(1901)年より喜多流の土地柄である弘前市に宝生流を広めた。大正7(1918)年1月31日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
小久保彦十郎は,弘化2(1845)年3月29日,吉田魚町(豊橋)の油屋小久保彦十郎の子として生まれた。謡曲は宝生流をよくした。廃藩置県によって吉田藩主大河内家より,能面・能衣装が豊橋魚町に譲渡された。明治6(1873)年学区取締となり,小学校設立に尽力した。養蚕業の普及奨励を志し,蚕種製造業を創設した。豊橋藩士柴田豊水・遊佐応らと共同して,明治11(1878)年豊橋東八町に座繰(ざぐり)製糸業を創立したが,多大の欠損を生じ,廃業の止むなきに至った。
明治19(1886)年青森県弘前に移住し,山桑を利用して養蚕を企てたが,失敗した。そこでりんごの栽培を志し,津軽郡小沢村(弘前市)の萱野30町歩を開墾して成功した。明治34(1901)年,外国へも輸出されるようになった。また,明治34(1901)年より喜多流の土地柄である弘前市に宝生流を広めた。大正7(1918)年1月31日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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