やすみくまのしゃ
安海熊野社は,保延2(1136)年,鳥羽上皇の命により,熊野から快円法印が下向して建立したと伝える。その後,紀伊の人・鈴木重胤(しげたね)が宝飯郡佐脇村(宝飯郡御津町)に上陸し,この地に住み熊野権現の神主となった。牧野古白は,明応4(1495)年社殿を造立し,今川義元は,天文22(1553)年永銭10貫余文の地を寄進して造営社領とした。また,今川義元は境内において魚市を立て,表浜一帯でとれた魚類を売買させ,その口銭で社殿の造営・祭祀の費用に充てることを免許した。なお,天正18(1590)年池田輝政の吉田(豊橋)城拡張に伴って吉田(豊橋)札木町から魚町に奉遷した。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「熊野権現,神主鈴木伊予伝次郎,御朱印社領五石目」とあり,「三河国二葉松」(元文5年)に,「吉田魚町熊野社,社領五石,神主鈴木土佐」とある。昭和20(1945)年6月の空襲によって社殿が被災したが,同42(67)年造営した。昭和17(1942)年「魚町能狂言の面と装束」が国の重要美術品,平成5(1993)年豊橋市有形文化財,同8(96)年愛知県有形文化財に指定された。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
安海熊野社は,保延2(1136)年,鳥羽上皇の命により,熊野から快円法印が下向して建立したと伝える。その後,紀伊の人・鈴木重胤(しげたね)が宝飯郡佐脇村(宝飯郡御津町)に上陸し,この地に住み熊野権現の神主となった。牧野古白は,明応4(1495)年社殿を造立し,今川義元は,天文22(1553)年永銭10貫余文の地を寄進して造営社領とした。また,今川義元は境内において魚市を立て,表浜一帯でとれた魚類を売買させ,その口銭で社殿の造営・祭祀の費用に充てることを免許した。なお,天正18(1590)年池田輝政の吉田(豊橋)城拡張に伴って吉田(豊橋)札木町から魚町に奉遷した。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「熊野権現,神主鈴木伊予伝次郎,御朱印社領五石目」とあり,「三河国二葉松」(元文5年)に,「吉田魚町熊野社,社領五石,神主鈴木土佐」とある。昭和20(1945)年6月の空襲によって社殿が被災したが,同42(67)年造営した。昭和17(1942)年「魚町能狂言の面と装束」が国の重要美術品,平成5(1993)年豊橋市有形文化財,同8(96)年愛知県有形文化財に指定された。
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