おおさきじま・おおつじま
田原湾の海面の寄州(よりす)に,大崎村(豊橋市大崎町・船渡町)に属する本島・平島・長松島(一部)と大津村(豊橋市老津町)に属する大津島・蜷島(になじま)・仏島・長松島などがあった。江戸期にはこの海域に,野依村・西植田村・東植田村・切反ヶ谷(きったがや)村・仏餉(ぶっしょう)村など5か村の藻草採取権(海面入会権)が認められていた。江戸期にも,田原湾沿岸諸村地先の干潟を開発する計画があった。天保4(1833)年に,幕府の開発計画があった。沿岸諸村は,海稼ぎの収入を失うこと,肥料の採取が不可能になること,水害の恐れがあること,船着場がなくなることをあげて,幕府に開発中止を訴えた。大津村から谷熊村にかけての地先開発計画は,いったん中止になった。しかし,安政5(1858)年,再燃した。この工事も難工事で,資金が欠乏して工事は中止された。明治期になると、海苔(のり)・蛤(はまぐり)の養殖が行われ,汐川干潟は,渡り鳥の渡来地となっている。
昭和7(1932)年,渥美郡高師村大崎は,豊橋市大崎町・船渡町となり,本島は船渡町,平島・長松島(一部)は大崎町となった。昭和30(1955)年,渥美郡老津村は豊橋市老津町となった。この間,昭和13(1938)年10月から,平島・本島・大津島などに海軍航空隊基地が造成され,同18(43)年4月,豊橋海軍航空隊が開隊した。第2次世界大戦後は,昭和22(1947)年3月から,海軍航空隊あとは日東製塩株式会社が貸与を受けていたが,同25(50)年3月,製塩を中止した。昭和23(1948)年10月,2000反余の土地は,大崎・船渡・老津の元地主たちに農地として払い下げられた。昭和32(1957)年8月16日,豊橋市船渡町本嶋,大崎町平嶋・嶋間に,豊橋市大崎町本島(1171反442)が画され,豊橋市老津町蜷嶋・小嶋・大津嶋・嶋間に,豊橋市老津町大島(1051反656)が画された(愛知県告示第404号)。
昭和28(1953)年6月18日,愛知県は港域拡張について告示し,豊橋市は東都製鋼株式会社(昭和39年トピー工業と改称)の誘致について漁組に同意を求めた。東都製鋼は,昭和32(1957)年,国有地の払い下げを受け,翌33(58)年11月,豊橋製鋼所の開所式・火入式を行った。漁組は反対したが,昭和36(1961)年度より,豊橋港造成・臨海工業用地造成が始まった。昭和39(1964)年4月,三河港は重要港湾の指定を受け,同39(64)年9月,東三河の4市7町は工業整備特別地域の指定を受けた。愛知県企業局は,翌昭和40(1965)年2月,豊橋の8漁協(大崎・牟呂・度津(わたつ)・老津・杉山・前芝・梅薮・日色野)のほか,田原・伊奈・平井・下佐脇・(漁船漁業者)渥美地区等13漁組に対して,三河港および工業用地造成のため,漁業補償額95億円,海面下土地買収費5億円,総額100億円の漁業補償を呈示した。大崎漁組は,昭和42(1967)年12月,補償額27億7600万円の契約書に調印した。昭和44(1969)年1月,漁業補償配分完了総会を開催し,同44(69)年8月,解散した。昭和48(1973)年5月1日,豊橋市老津町地先公有水面埋立地86万4766.36㎡および豊橋市大崎町本島・老津町大津島・島間・ヒロ藻・大島の全部で,豊橋市明海町が設定された(愛知県告示第377号)。豊橋市明海町は,埋め立ての進行とともに,8回にわたって公有水面埋立地の編入が行われた。
関連項目 - 海中の字の廃止
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
田原湾の海面の寄州(よりす)に,大崎村(豊橋市大崎町・船渡町)に属する本島・平島・長松島(一部)と大津村(豊橋市老津町)に属する大津島・蜷島(になじま)・仏島・長松島などがあった。江戸期にはこの海域に,野依村・西植田村・東植田村・切反ヶ谷(きったがや)村・仏餉(ぶっしょう)村など5か村の藻草採取権(海面入会権)が認められていた。江戸期にも,田原湾沿岸諸村地先の干潟を開発する計画があった。天保4(1833)年に,幕府の開発計画があった。沿岸諸村は,海稼ぎの収入を失うこと,肥料の採取が不可能になること,水害の恐れがあること,船着場がなくなることをあげて,幕府に開発中止を訴えた。大津村から谷熊村にかけての地先開発計画は,いったん中止になった。しかし,安政5(1858)年,再燃した。この工事も難工事で,資金が欠乏して工事は中止された。明治期になると、海苔(のり)・蛤(はまぐり)の養殖が行われ,汐川干潟は,渡り鳥の渡来地となっている。
昭和7(1932)年,渥美郡高師村大崎は,豊橋市大崎町・船渡町となり,本島は船渡町,平島・長松島(一部)は大崎町となった。昭和30(1955)年,渥美郡老津村は豊橋市老津町となった。この間,昭和13(1938)年10月から,平島・本島・大津島などに海軍航空隊基地が造成され,同18(43)年4月,豊橋海軍航空隊が開隊した。第2次世界大戦後は,昭和22(1947)年3月から,海軍航空隊あとは日東製塩株式会社が貸与を受けていたが,同25(50)年3月,製塩を中止した。昭和23(1948)年10月,2000反余の土地は,大崎・船渡・老津の元地主たちに農地として払い下げられた。昭和32(1957)年8月16日,豊橋市船渡町本嶋,大崎町平嶋・嶋間に,豊橋市大崎町本島(1171反442)が画され,豊橋市老津町蜷嶋・小嶋・大津嶋・嶋間に,豊橋市老津町大島(1051反656)が画された(愛知県告示第404号)。
昭和28(1953)年6月18日,愛知県は港域拡張について告示し,豊橋市は東都製鋼株式会社(昭和39年トピー工業と改称)の誘致について漁組に同意を求めた。東都製鋼は,昭和32(1957)年,国有地の払い下げを受け,翌33(58)年11月,豊橋製鋼所の開所式・火入式を行った。漁組は反対したが,昭和36(1961)年度より,豊橋港造成・臨海工業用地造成が始まった。昭和39(1964)年4月,三河港は重要港湾の指定を受け,同39(64)年9月,東三河の4市7町は工業整備特別地域の指定を受けた。愛知県企業局は,翌昭和40(1965)年2月,豊橋の8漁協(大崎・牟呂・度津(わたつ)・老津・杉山・前芝・梅薮・日色野)のほか,田原・伊奈・平井・下佐脇・(漁船漁業者)渥美地区等13漁組に対して,三河港および工業用地造成のため,漁業補償額95億円,海面下土地買収費5億円,総額100億円の漁業補償を呈示した。大崎漁組は,昭和42(1967)年12月,補償額27億7600万円の契約書に調印した。昭和44(1969)年1月,漁業補償配分完了総会を開催し,同44(69)年8月,解散した。昭和48(1973)年5月1日,豊橋市老津町地先公有水面埋立地86万4766.36㎡および豊橋市大崎町本島・老津町大津島・島間・ヒロ藻・大島の全部で,豊橋市明海町が設定された(愛知県告示第377号)。豊橋市明海町は,埋め立ての進行とともに,8回にわたって公有水面埋立地の編入が行われた。
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豊橋市議の長坂です。
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