おおさきじょう
大崎城は「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村古城,伊庭藤太,後戸田三左衛門,仁連木戸田別,後池田武蔵守内伊庭藤太トテ弓勢人也」とある。
戸田氏は,永正年間(1504~1521)には,牧野氏と今橋城の争奪を繰り返していた。今橋城を奪われた戸田氏は田原ヘ逃れた。その後,今橋城に対して築いたのが大崎城である。正確な時期などについては明らかではない。規模は200m×100m程度と考えられる。
戸田氏はこの大崎城をはじめ,波入江(なむれ)城,北裏城,田原城とかつての渥美湾岸線沿いに城を築いており,海を意識した築城,選地であったことは想像に難くない。
城址(じょうし)は竜源院の北東にあたり,現在も,曲輪(くるわ),堀,土塁,土橋,井戸などの遺構が確認できる。本曲輪の北側には,幸稲荷(みゆきいなり)が鎮座しているがこれも曲輪の一つである。
特に堀は,本曲輪土塁上からの深さが約
8mあり,吉田(豊橋)城の本丸周囲の堀に匹敵する。本曲輪をほぼ半円状に囲む堀を谷熊堀(やぐまぼり),南に少し離れた竜源院と八幡社の間の堀を杉山堀と呼んでいるが,これは築城当時作業にあたらせた村の名前に由来する。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
大崎城は「三河国二葉松」(元文5年)に,「大崎村古城,伊庭藤太,後戸田三左衛門,仁連木戸田別,後池田武蔵守内伊庭藤太トテ弓勢人也」とある。
戸田氏は,永正年間(1504~1521)には,牧野氏と今橋城の争奪を繰り返していた。今橋城を奪われた戸田氏は田原ヘ逃れた。その後,今橋城に対して築いたのが大崎城である。正確な時期などについては明らかではない。規模は200m×100m程度と考えられる。
戸田氏はこの大崎城をはじめ,波入江(なむれ)城,北裏城,田原城とかつての渥美湾岸線沿いに城を築いており,海を意識した築城,選地であったことは想像に難くない。
城址(じょうし)は竜源院の北東にあたり,現在も,曲輪(くるわ),堀,土塁,土橋,井戸などの遺構が確認できる。本曲輪の北側には,幸稲荷(みゆきいなり)が鎮座しているがこれも曲輪の一つである。
特に堀は,本曲輪土塁上からの深さが約
8mあり,吉田(豊橋)城の本丸周囲の堀に匹敵する。本曲輪をほぼ半円状に囲む堀を谷熊堀(やぐまぼり),南に少し離れた竜源院と八幡社の間の堀を杉山堀と呼んでいるが,これは築城当時作業にあたらせた村の名前に由来する。
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豊橋市議の長坂です。
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苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
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では!