おおぐち・きろく(1870~1957)
大口喜六は,明治3(1870)年5月25日,豊橋船町の大口為蔵の子として生まれた。幼名理一郎,号を蓊山と称した。児島閑窓の門で漢籍,穂積清軒の好問社で英書を学んだ。のちに東京帝国大学選科で薬学を修めた。帰郷後薬局を開業したが,政治家を志して,明治26(1893)年,改進党に入党した。明治28(1895)年,豊橋町議に当選し,同31(98)年三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。
豊橋町会は,市制施行問題で同志派の市制施行論,実業派の時期尚早論で対立した。明治39(1906)年8月1日市制を施行し,初代市長に選ばれた。豊橋は,蚕糸業だけでは発展に限りがあるとして,軍隊誘致によって都市の発展を策した。日露戦争後,陸軍は4個師団増設を決定した。第15師団は,高師村に誘致された。豊橋市は,向山に工兵隊の敷地を提供し,上伝馬・札木の遊廓を東田(あずまだ)に移転し,幹線道路の整備を行った。
明治45(1912)年から昭和17(1942)年まで衆議院議員を10期務め,昭和2(1927)年には大蔵政務次官となった。昭和5(1930)年浜口内閣の金解禁に反対して,石橋湛山・小汀利得・高橋亀吉らとともに全国を遊説した。昭和15(1940)年国民更生金庫が設立され,その理事長に就任した。
著書に「豊橋市及其付近」「豊橋史談」(大正5年)「国史上より観たる豊橋地方」(昭和12年)がある。豊橋市名誉市民(昭和28年)となる。昭和32(1957)年1月27日,没した。
大口喜六の4男・大口信夫(1917~94)は,駐ブラジル大使などを歴任,外国の郷土玩具を収集し,没後豊橋市に寄贈した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
大口喜六は,明治3(1870)年5月25日,豊橋船町の大口為蔵の子として生まれた。幼名理一郎,号を蓊山と称した。児島閑窓の門で漢籍,穂積清軒の好問社で英書を学んだ。のちに東京帝国大学選科で薬学を修めた。帰郷後薬局を開業したが,政治家を志して,明治26(1893)年,改進党に入党した。明治28(1895)年,豊橋町議に当選し,同31(98)年三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。
豊橋町会は,市制施行問題で同志派の市制施行論,実業派の時期尚早論で対立した。明治39(1906)年8月1日市制を施行し,初代市長に選ばれた。豊橋は,蚕糸業だけでは発展に限りがあるとして,軍隊誘致によって都市の発展を策した。日露戦争後,陸軍は4個師団増設を決定した。第15師団は,高師村に誘致された。豊橋市は,向山に工兵隊の敷地を提供し,上伝馬・札木の遊廓を東田(あずまだ)に移転し,幹線道路の整備を行った。
明治45(1912)年から昭和17(1942)年まで衆議院議員を10期務め,昭和2(1927)年には大蔵政務次官となった。昭和5(1930)年浜口内閣の金解禁に反対して,石橋湛山・小汀利得・高橋亀吉らとともに全国を遊説した。昭和15(1940)年国民更生金庫が設立され,その理事長に就任した。
著書に「豊橋市及其付近」「豊橋史談」(大正5年)「国史上より観たる豊橋地方」(昭和12年)がある。豊橋市名誉市民(昭和28年)となる。昭和32(1957)年1月27日,没した。
大口喜六の4男・大口信夫(1917~94)は,駐ブラジル大使などを歴任,外国の郷土玩具を収集し,没後豊橋市に寄贈した。
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豊橋市議の長坂です。
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