どい・じさん(1639~1732)
土肥二三は,越後国長岡(新潟県長岡市)で生まれた。名を豊隆,通称を孫兵衛,自在軒と号し,はじめ土肥,のち土岐と改めた。下総国関宿(千葉県野田市)藩主牧野成貞に仕え,宝永2(1705)年吉田(豊橋)に転封した牧野成春に従って,吉田に来住した。織田貞置に茶道を学び,香道・華道のほかに琵琶にも造詣が深く,邸内に琵琶塚を築いたという。飯村(いむれ)(豊橋市飯村町)の智光庵は,土肥二三の側室智光尼が一子を失った後,仏門に入って庵室を営んだものと伝える。宝永5(1708)年致仕し,剃髪(ていはつ)して隠棲(いんせい)の地を京都岡崎に求め,風流(ふうりゅう)三昧(ざんまい)の生活を送った。享保17(1732)年1月6日,94歳で京都で没した。
参考文献 - 小田栄一「茶人の花押」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
土肥二三は,越後国長岡(新潟県長岡市)で生まれた。名を豊隆,通称を孫兵衛,自在軒と号し,はじめ土肥,のち土岐と改めた。下総国関宿(千葉県野田市)藩主牧野成貞に仕え,宝永2(1705)年吉田(豊橋)に転封した牧野成春に従って,吉田に来住した。織田貞置に茶道を学び,香道・華道のほかに琵琶にも造詣が深く,邸内に琵琶塚を築いたという。飯村(いむれ)(豊橋市飯村町)の智光庵は,土肥二三の側室智光尼が一子を失った後,仏門に入って庵室を営んだものと伝える。宝永5(1708)年致仕し,剃髪(ていはつ)して隠棲(いんせい)の地を京都岡崎に求め,風流(ふうりゅう)三昧(ざんまい)の生活を送った。享保17(1732)年1月6日,94歳で京都で没した。
参考文献 - 小田栄一「茶人の花押」
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