きけんじ
呉服山喜見寺(曹洞宗)の創立は,南北朝末期の元中7(1390)年で,開基は郷士の吉見吉(喜)太郎であり,寺域は当時戦乱のために消失した吉見氏の城址(じょうし)であると伝えられている。開山は大津(豊橋市老津町)桂昌寺の3代徳海和尚で,はじめは吉見寺と書いたが,後に喜見寺と改めた。創立当時は臨済宗建長寺の末寺であったが,大永5(1525)年曹洞宗に改宗したと伝えられている。本尊は聖観世音菩薩像で別堂に伝行基作の文殊菩薩像が祀られていた。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,新銭町,呉服山喜見寺,吉田竜拈寺(りゅうねんじ)末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御証文有之」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に「新錢町馬見塚地,吉田,黒印四石五斗,禅宗曹洞派,本寺竜拈寺,呉服山喜見寺」とある。
空襲により本尊聖観世音菩薩像・文殊菩薩像はじめ,全伽藍(がらん)を消失した。昭和24(1949)年本堂庫裏(くり)合棟を建立し,釈迦如来像を本尊に祀った。戦災復興都市計画により現地点に移ったが,平成4(1992)年旧堂を廃し,本堂庫裏を再建した。平成12(2000)年竜拈寺第38世禅月信定大和尚を法地開山に仰いで転格した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
呉服山喜見寺(曹洞宗)の創立は,南北朝末期の元中7(1390)年で,開基は郷士の吉見吉(喜)太郎であり,寺域は当時戦乱のために消失した吉見氏の城址(じょうし)であると伝えられている。開山は大津(豊橋市老津町)桂昌寺の3代徳海和尚で,はじめは吉見寺と書いたが,後に喜見寺と改めた。創立当時は臨済宗建長寺の末寺であったが,大永5(1525)年曹洞宗に改宗したと伝えられている。本尊は聖観世音菩薩像で別堂に伝行基作の文殊菩薩像が祀られていた。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,新銭町,呉服山喜見寺,吉田竜拈寺(りゅうねんじ)末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御証文有之」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に「新錢町馬見塚地,吉田,黒印四石五斗,禅宗曹洞派,本寺竜拈寺,呉服山喜見寺」とある。
空襲により本尊聖観世音菩薩像・文殊菩薩像はじめ,全伽藍(がらん)を消失した。昭和24(1949)年本堂庫裏(くり)合棟を建立し,釈迦如来像を本尊に祀った。戦災復興都市計画により現地点に移ったが,平成4(1992)年旧堂を廃し,本堂庫裏を再建した。平成12(2000)年竜拈寺第38世禅月信定大和尚を法地開山に仰いで転格した。
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