わだ・やすいち(?~1956)
和田保一は,豊橋市東田(あずまだ)町に生まれた。豊橋市八町高等小学校補習科を卒業し,上京して美術学校に通いながら,佐藤惣之助の門に入り詩を書いた。彼の詩が華麗で官能的であると評されたのも美術の素養のためで,この詩のスタイルは終生変わらなかった。大正の末,故郷に戻り,豊橋詩人協会の機関紙「詩線以上」の編集を担当したり,「自画像」の同人となって文芸評論などを執筆した。また,プロレタリア演劇活動にも参加したが,昭和8(1933)年1月,豊橋警察署特別髙等課によって検挙された。翌昭和9(1934)年民衆文化の灯を守ろうとして,総合雑誌「文化都市」を発刊したが,7号で終刊した。しかし,この雑誌は第2次世界大戦前の豊橋のプロレタリア文化雑誌としての意義は大きい。その中でも彼が書いた「豊橋酒場変遷史」は,戦前の豊橋の風俗を知る上で,貴重な資料となっている。昭和31(1956)年12月,交通事故により没した。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
和田保一は,豊橋市東田(あずまだ)町に生まれた。豊橋市八町高等小学校補習科を卒業し,上京して美術学校に通いながら,佐藤惣之助の門に入り詩を書いた。彼の詩が華麗で官能的であると評されたのも美術の素養のためで,この詩のスタイルは終生変わらなかった。大正の末,故郷に戻り,豊橋詩人協会の機関紙「詩線以上」の編集を担当したり,「自画像」の同人となって文芸評論などを執筆した。また,プロレタリア演劇活動にも参加したが,昭和8(1933)年1月,豊橋警察署特別髙等課によって検挙された。翌昭和9(1934)年民衆文化の灯を守ろうとして,総合雑誌「文化都市」を発刊したが,7号で終刊した。しかし,この雑誌は第2次世界大戦前の豊橋のプロレタリア文化雑誌としての意義は大きい。その中でも彼が書いた「豊橋酒場変遷史」は,戦前の豊橋の風俗を知る上で,貴重な資料となっている。昭和31(1956)年12月,交通事故により没した。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!