わで・とくいち(1922~2005)
和出徳一は,大正11(1922)年5月30日,北設楽郡本郷町(北設楽郡東栄町本郷)で,和出栄太郎の長男として生まれたが,昭和2(1927)年,5歳の時,父が死去して,母子3人で豊橋に移り住んだ。昭和16(1941)年,豊橋第二中学校を卒業し,南満州鉄道に入社してハルビン工業大学の給費生になった。
昭和20(1945)年,ソ連に抑留され,在ソ民主化運動に参加した。昭和25(1950)年,日本帰還者同盟中央委員,同27(52)年日本共産党東三地区委員長になった。昭和38(1963)年から,豊橋市議会議員を2期,同46(71)年から,愛知県議会議員を6期務めた。
「トテ馬車の虎さん」(昭和50年)に,生い立ちや回顧談がある。本来の議員活動のほかに,生活相談を年間平均600件,面接回数は1800件,面接日数は150日,面接日は1日12件くらいあったという。死去する1週間前,倒れる寸前まで生活相談をしていた。著書に,「明るく住みよい東三河のために~東三河工業整備特別地域計画批判」(昭和45年),「東三河地域開発の10年を解剖する~愛知県第4次地方計画批判」(昭和52年)がある。平成17(2005)年1月27日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
和出徳一は,大正11(1922)年5月30日,北設楽郡本郷町(北設楽郡東栄町本郷)で,和出栄太郎の長男として生まれたが,昭和2(1927)年,5歳の時,父が死去して,母子3人で豊橋に移り住んだ。昭和16(1941)年,豊橋第二中学校を卒業し,南満州鉄道に入社してハルビン工業大学の給費生になった。
昭和20(1945)年,ソ連に抑留され,在ソ民主化運動に参加した。昭和25(1950)年,日本帰還者同盟中央委員,同27(52)年日本共産党東三地区委員長になった。昭和38(1963)年から,豊橋市議会議員を2期,同46(71)年から,愛知県議会議員を6期務めた。
「トテ馬車の虎さん」(昭和50年)に,生い立ちや回顧談がある。本来の議員活動のほかに,生活相談を年間平均600件,面接回数は1800件,面接日数は150日,面接日は1日12件くらいあったという。死去する1週間前,倒れる寸前まで生活相談をしていた。著書に,「明るく住みよい東三河のために~東三河工業整備特別地域計画批判」(昭和45年),「東三河地域開発の10年を解剖する~愛知県第4次地方計画批判」(昭和52年)がある。平成17(2005)年1月27日,没した。
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