よしだ24ちょう

 東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であった。吉田(豊橋)町地および吉田方5か村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に,吉田中3032石余である。「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,豊橋藩領分 豊橋町570石余,豊橋駅傍寺所除地235石余,同川場除地21石余とある。

 東海道に沿う表町12町は,西から順に船町(113軒)・田町(76軒)・坂下町(30軒)・上伝馬町(77軒)・本町(36軒)・札木町(71軒)・呉服町(40軒)・曲尺手(かねんて)町(68軒)・鍛冶町(62軒)・下モ町(24軒)・今新町(61軒)・元新町(43軒)である。東海道の南側の裏町12町は,天王町(15軒)・萱町(53軒)・指笠(さしかさ)町(31軒)・御輿休(みこしやすみ)町(11軒)・魚町(119軒)・垉六(ほうろく)町(17軒)・下リ町(26軒)・紺屋町(21軒)・利(とぎ)町(19軒)・元鍛冶町(26軒)・手間町(41軒)・世古町(7軒)である。(かっこ内は寛延3年の家数)

 寛延3(1750)年の改めでは,総家数は借家居分共に1363軒,総人数は5530人で,下地村境から瓦町境までの往還長は23町30間(2.56㎞)であった。林自見「三州吉田記」に,

一水野忠善之時,移呉服町作次家札木町。

一本町古往元町ト云,池田輝政之時改号本町。

一元新町元来在リ焉,たい水野忠清之時,総門之外建町家,号今新町。

一坂下町,御輿休町両町ハ水野忠清,水野忠善両代作町家,従是定人足役町。

一下リ町,手間町,元鍛冶町,是ノ三町小笠原山城守,同壱岐守迄連々成町家,定之地子町。

一鉄炮町,小笠原長重改手間町。

一伝馬役,上ミ下モ於両所,勤之,上伝馬町ハ其時之名也,下モ伝馬ハ於下モ町勉焉。

とある。船町は船役で地子免除,田町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手町の6町は伝馬役,14町は平人足役,元鍛冶町・下リ町・手間町の3町は年貢地であった。札木町には高札場があり,本陣・問屋場があった。

 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,吉田方「御城内天王宮,吉田町裏御輿休,寺地御城内浄土宗羽田村地内孤峯山浄業院悟真寺,上伝馬町裏浄土宗三社山称名院,下リ町浄土宗地蔵院,禅宗吉田山竜拈寺,禅宗今橋山興徳寺」とある。

 明治11(1878)年に田町・坂下町は合併して湊町,垉六町・下リ町は合併して花園町となり,天王町は上伝馬町に,御輿休町は本町に,利町は札木町に合併した。元鍛冶町は,世古町の一部を合併して吉屋町と改称し,手間町は世古町の一部を合併した。今新町・元新町は,それぞれ西新町・東新町と改称した。

 昭和33(1988)年の戦災復興土地区画整理によって,本町と指笠町が合併して新本町となり,下町は鍛冶町に合併した。また,紺屋町・手間町は大手町となり,吉屋町は新川町の一部と合併して新吉町となった。

 関連項目 - 船町 魚市場(豊橋市下五井町青木) 町裏10か所

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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