よしだしゅくほんじん
吉田(豊橋)宿本陣は,吉田の中心街札木に2軒あった。いずれも街道北側にあり,当初は清須屋こと中西与右衛門家1軒であったが,後に清須屋の東隣の江戸屋新右衛門家が脇本陣より本陣に昇格した。この昇格の時期については,古記録などから松平(大河内)信復(のぶなお)が吉田城主となった寛延2(1749)年ごろと考えられている。吉田宿脇本陣は街道南側にあり,桝家こと鈴木庄七郎家であったが,同家が脇本陣となったのも江戸屋の本陣昇格と同時期と考えられている。
東海道53宿全体で本陣111軒,脇本陣68軒であり,その平均値はそれぞれ2.1軒,1.3軒であるので,吉田宿の本陣2軒,脇本陣1軒は平均的なものといえる。
天保14(1843)年の記録によれば,清須屋が門構・玄関附で建坪327坪(1079㎡),江戸屋が門構・玄関附で建坪199坪(656㎡),桝屋が門構・玄関附で建坪131坪(432㎡)であった。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
吉田(豊橋)宿本陣は,吉田の中心街札木に2軒あった。いずれも街道北側にあり,当初は清須屋こと中西与右衛門家1軒であったが,後に清須屋の東隣の江戸屋新右衛門家が脇本陣より本陣に昇格した。この昇格の時期については,古記録などから松平(大河内)信復(のぶなお)が吉田城主となった寛延2(1749)年ごろと考えられている。吉田宿脇本陣は街道南側にあり,桝家こと鈴木庄七郎家であったが,同家が脇本陣となったのも江戸屋の本陣昇格と同時期と考えられている。
東海道53宿全体で本陣111軒,脇本陣68軒であり,その平均値はそれぞれ2.1軒,1.3軒であるので,吉田宿の本陣2軒,脇本陣1軒は平均的なものといえる。
天保14(1843)年の記録によれば,清須屋が門構・玄関附で建坪327坪(1079㎡),江戸屋が門構・玄関附で建坪199坪(656㎡),桝屋が門構・玄関附で建坪131坪(432㎡)であった。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!