よしだじょうこうぼうしもじかっせん
吉田城(豊橋)攻防・下地合戦は,牧野信成が吉田城主の時,西三河において松平清康が勢力を拡大して東三河を侵攻した享禄2(1529)年5月28日のことである。松平清康は,享禄2(1529)年5月27日,兵を発し赤坂(宝飯郡音羽町)から小坂井(宝飯郡小坂井町)へと侵攻して来た。松平清康軍の先鋒(せんぽう)は下地村(豊橋市下地町)に達して近辺に放火して回った。牧野信成は,城内に籠城(ろうじょう)するよりは出撃して松平清康と雌雄(しゆう)を決すべく,自ら1000騎を率いて豊川(とよがわ)を渡り,下地堤に背水の陣を構えた。
松平清康は,下地堤を間にして対陣し,享禄2(1529)年5月28日,松平清康軍の攻撃により戦陣の火ぶたが切られた。戦闘の初期は,牧野信成軍が優勢であったが,時間の経過とともに松平清康軍が挽回して,下地堤で牧野信成と伝次・新蔵・新次の牧野一族がことごとく戦死した。吉田城を対岸に見る豊橋市下地町神田地内に昭和38(1963)年下地町総代会が,「吉田城主牧野一族の塚」を建立した。下地合戦の激戦地「水神社」の隣に牧野一族が埋葬されたが,後年,一族の墓は竜拈寺(りゅうねんじ)に改葬された。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
吉田城(豊橋)攻防・下地合戦は,牧野信成が吉田城主の時,西三河において松平清康が勢力を拡大して東三河を侵攻した享禄2(1529)年5月28日のことである。松平清康は,享禄2(1529)年5月27日,兵を発し赤坂(宝飯郡音羽町)から小坂井(宝飯郡小坂井町)へと侵攻して来た。松平清康軍の先鋒(せんぽう)は下地村(豊橋市下地町)に達して近辺に放火して回った。牧野信成は,城内に籠城(ろうじょう)するよりは出撃して松平清康と雌雄(しゆう)を決すべく,自ら1000騎を率いて豊川(とよがわ)を渡り,下地堤に背水の陣を構えた。
松平清康は,下地堤を間にして対陣し,享禄2(1529)年5月28日,松平清康軍の攻撃により戦陣の火ぶたが切られた。戦闘の初期は,牧野信成軍が優勢であったが,時間の経過とともに松平清康軍が挽回して,下地堤で牧野信成と伝次・新蔵・新次の牧野一族がことごとく戦死した。吉田城を対岸に見る豊橋市下地町神田地内に昭和38(1963)年下地町総代会が,「吉田城主牧野一族の塚」を建立した。下地合戦の激戦地「水神社」の隣に牧野一族が埋葬されたが,後年,一族の墓は竜拈寺(りゅうねんじ)に改葬された。
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