よしだじょうひとじちだっかん

 吉田城人質奪還は,永禄7(1564)年5月12日,二連木(にれんぎ)城主戸田主殿介重貞が吉田城に人質となっていた母を奪還したできごとである。岡崎の松平家康は,西三河の一向一揆を平定した後,勢力を東三河へと侵攻させ「小坂井」「牛久保」を手中に収めて「吉田城」をうかがっていた。吉田城は,今川氏の城代小原肥前守鎮実が守っていた。二連木城主戸田重貞は母親が人質として吉田城内に留め置かれており,松平家康への内応に苦慮していた。

 戸田重貞は,一計を講じて母親の城内からの奪還を試みた。永禄7(1564)年5月12日,戸田重貞は,小原鎮実のご機嫌を伺うと同時に母親の無聊(ぶりょう)を慰めるために大きな「唐櫃(からびつ)」に茶道具一式を入れて家臣に担がせて登城した。城門番衆に,唐櫃の中身を検分させて城内に入った戸田重貞は小原鎮実と「双六(すごろく)遊び」に興じた。ころあいを見計らった家臣が,母親を唐櫃に入れて城外へと出た。唐櫃の中身が茶道具一式と門番衆を油断させての脱出であり,計略は成功した。首尾よく,母親を人質から奪還した戸田重貞は,永禄7(1564)年5月13日,松平家康に合図の狼煙(のろし)を揚げて内応を告げた。東西を挟撃されることになった小原鎮実は吉田城を放棄して駿河へと兵を引き揚げた。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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