よしださんめいすい
吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲候吉田在城の時,茶事に用う。実に霊泉清冷にして四時増減なし」とある。現在のイチビキ株式会社の西側(防火用水の西)にあった。昭和15(1940)年3月,愛知県道花田大崎線が開設されたとき「栄川の泉」は取り壊しになったが,泉に建てられていた「栄泉社」は豊橋市北側町の個人の家に祀られている。「御坊の井」は,豊橋別院(豊橋市花園町)境内にあった。明治元(1868)年,明治天皇行幸の折の9月29日,豊橋に寄られた際,この水が用いられたとされる。「呉竹の井」は,正林寺(豊橋市南松山町)の境内にあった。「三河国吉田名蹤綜録」には「実に霊水にして味又世に異なり,四時増減なし」と記されている。この吉田三名水は,いずれも現在は跡形もない。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲候吉田在城の時,茶事に用う。実に霊泉清冷にして四時増減なし」とある。現在のイチビキ株式会社の西側(防火用水の西)にあった。昭和15(1940)年3月,愛知県道花田大崎線が開設されたとき「栄川の泉」は取り壊しになったが,泉に建てられていた「栄泉社」は豊橋市北側町の個人の家に祀られている。「御坊の井」は,豊橋別院(豊橋市花園町)境内にあった。明治元(1868)年,明治天皇行幸の折の9月29日,豊橋に寄られた際,この水が用いられたとされる。「呉竹の井」は,正林寺(豊橋市南松山町)の境内にあった。「三河国吉田名蹤綜録」には「実に霊水にして味又世に異なり,四時増減なし」と記されている。この吉田三名水は,いずれも現在は跡形もない。
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