ふるいち・もくだ(1727頃~1810)
古市木朶は,吉田(豊橋)で生まれた。父・古市猪左衛門とは2歳の時,母・よしとは7歳の時,死別した。そのため親戚の世話になり,14歳の時,犬山へ行って生業を習ったといわれる。20歳の時,名古屋の五条坊木児に入門して楚笠と名乗り,のち五束斎木朶と改めた。宝暦12(1762)年,古市木朶36歳の時,故郷吉田に帰って吉田魚町で宿屋を営み,現金屋長兵衛春栄と称した。宝暦13(1763)年,師・五条坊木児死去後,天明元(1781)年,木朶は京都岡崎の五升庵蝶夢の門下となった。
明和6(1769)年,下地の聖眼寺境内の「松葉塚」の再建に努力した。天明3(1783)年,神宮寺で大木巴牛らと芭蕉90回忌を営んだ。寛政5(1793)年,芭蕉百回忌追善集「松葉塚」,文化4(1807)年,五升庵蝶夢13回忌追善の「無量仏」を刊行した。文化7(1810)年4月2日,84歳で没した。
編著に「俳諧豆恵乃於登(はいかいつえのおと)」「俳諧勧進帳」がある。文化9(1812)年,孫・木芽が追善集「ひしのはな」を刊行した。文化12(1815)年,俳諧吉田社中によって,岩屋山に「かすむ日や 海道一の たちほとけ」の句碑が建立された。木朶の俳諧の門流は東三河のほとんどと西遠地方に及んでいる。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
古市木朶は,吉田(豊橋)で生まれた。父・古市猪左衛門とは2歳の時,母・よしとは7歳の時,死別した。そのため親戚の世話になり,14歳の時,犬山へ行って生業を習ったといわれる。20歳の時,名古屋の五条坊木児に入門して楚笠と名乗り,のち五束斎木朶と改めた。宝暦12(1762)年,古市木朶36歳の時,故郷吉田に帰って吉田魚町で宿屋を営み,現金屋長兵衛春栄と称した。宝暦13(1763)年,師・五条坊木児死去後,天明元(1781)年,木朶は京都岡崎の五升庵蝶夢の門下となった。
明和6(1769)年,下地の聖眼寺境内の「松葉塚」の再建に努力した。天明3(1783)年,神宮寺で大木巴牛らと芭蕉90回忌を営んだ。寛政5(1793)年,芭蕉百回忌追善集「松葉塚」,文化4(1807)年,五升庵蝶夢13回忌追善の「無量仏」を刊行した。文化7(1810)年4月2日,84歳で没した。
編著に「俳諧豆恵乃於登(はいかいつえのおと)」「俳諧勧進帳」がある。文化9(1812)年,孫・木芽が追善集「ひしのはな」を刊行した。文化12(1815)年,俳諧吉田社中によって,岩屋山に「かすむ日や 海道一の たちほとけ」の句碑が建立された。木朶の俳諧の門流は東三河のほとんどと西遠地方に及んでいる。
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