かしゅくおおいわむら
大岩の地名は,南北朝期から諸史料にその名を見ることができる。江戸時代以前の詳細については不明な点が多いが,正応元(1288)年岩屋山麓にあった集落が本郷の地へ移転したと伝えられ,その後天正11(1583)年街道替えに伴い元屋敷の地(JR二川駅付近)へ移転したという。慶長6(1601)年には12町(約1.3㎞)ほど東の二川とともに東海道の宿場に指定され,両村で一宿分の勤めを果たしていた。しかし,正保元(1644)年両村は移転を命ぜられ,大岩はやや東方に,二川は大岩村地内に入り込む形で西方に移転し,現在のような大岩・二川が一続きの町並となった。このころから,二川が東海道五十三次の正式な宿場となり,大岩村は加宿となったようである。
大岩村(豊橋市大岩町)は,年貢を納める農村として幕府代官所や大名の支配を受けるとともに,人馬継立などの街道に関することでは二川宿とともに幕府道中奉行の支配を受けていた。家数・人口は,慶応元(1865)年には143軒・531人となっている。町並みは,二川宿との境に建つ高札場より中町・茶屋町の2町に分かれ,中町には人馬継立をする問屋場(といやば)があり,茶屋町の西端宿場の出口には,茶屋が数軒あり往来の人馬の休息する立場(たてば)となっていた。慶応3(1867)年の記録では,大岩町には茶屋2軒・飴茶屋2軒・商人宿1軒・穀屋3軒・豆腐屋1軒・質屋2軒・家大工3軒・瓦屋1軒・畳屋1軒・紺屋1軒などがあったが,いずれも村内の人々を相手とする小規模な経営であった。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
大岩の地名は,南北朝期から諸史料にその名を見ることができる。江戸時代以前の詳細については不明な点が多いが,正応元(1288)年岩屋山麓にあった集落が本郷の地へ移転したと伝えられ,その後天正11(1583)年街道替えに伴い元屋敷の地(JR二川駅付近)へ移転したという。慶長6(1601)年には12町(約1.3㎞)ほど東の二川とともに東海道の宿場に指定され,両村で一宿分の勤めを果たしていた。しかし,正保元(1644)年両村は移転を命ぜられ,大岩はやや東方に,二川は大岩村地内に入り込む形で西方に移転し,現在のような大岩・二川が一続きの町並となった。このころから,二川が東海道五十三次の正式な宿場となり,大岩村は加宿となったようである。
大岩村(豊橋市大岩町)は,年貢を納める農村として幕府代官所や大名の支配を受けるとともに,人馬継立などの街道に関することでは二川宿とともに幕府道中奉行の支配を受けていた。家数・人口は,慶応元(1865)年には143軒・531人となっている。町並みは,二川宿との境に建つ高札場より中町・茶屋町の2町に分かれ,中町には人馬継立をする問屋場(といやば)があり,茶屋町の西端宿場の出口には,茶屋が数軒あり往来の人馬の休息する立場(たてば)となっていた。慶応3(1867)年の記録では,大岩町には茶屋2軒・飴茶屋2軒・商人宿1軒・穀屋3軒・豆腐屋1軒・質屋2軒・家大工3軒・瓦屋1軒・畳屋1軒・紺屋1軒などがあったが,いずれも村内の人々を相手とする小規模な経営であった。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!