くらみつ・せつじん(1887~1966)
倉光設人(天庫(てんこ))は,明治20(1887)年3月16日,新城藩士島田鯉三郎の3男に生まれた。名を庫次郎と称した。4歳で母・梨枝の兄・倉光成資の養子になった。15歳で新城小学校助教員,23歳で名古屋市広井小学校教員となった。大正7(1918)年,豊橋日日新聞社の記者に転職した。昭和2(1927)年編集長として日曜文芸欄を創設し,演劇評論を書き,曽我廼家(そがのや)五郎・実川延芝・中村雁治郎らと交流をもった。昭和6(1931)年豊橋日日新聞に,創作「三河くずし染」を連載した。
昭和13(1938)年市内日刊紙合併を機に退社して,釣具店経営のかたわら,三河民俗行事の資料を収集し,「旅の伝説」などの雑誌や新聞に倉光設人の名で投稿した。著書に「北設の花祭」「祇園祭と笹踊」「三河万歳」「豊橋鬼祭」などがある。昭和25(1950)年,日本民俗学会評議員・豊橋市史編纂委員・三河郷土学会理事などを務めた。昭和41(1966)年5月10日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
倉光設人(天庫(てんこ))は,明治20(1887)年3月16日,新城藩士島田鯉三郎の3男に生まれた。名を庫次郎と称した。4歳で母・梨枝の兄・倉光成資の養子になった。15歳で新城小学校助教員,23歳で名古屋市広井小学校教員となった。大正7(1918)年,豊橋日日新聞社の記者に転職した。昭和2(1927)年編集長として日曜文芸欄を創設し,演劇評論を書き,曽我廼家(そがのや)五郎・実川延芝・中村雁治郎らと交流をもった。昭和6(1931)年豊橋日日新聞に,創作「三河くずし染」を連載した。
昭和13(1938)年市内日刊紙合併を機に退社して,釣具店経営のかたわら,三河民俗行事の資料を収集し,「旅の伝説」などの雑誌や新聞に倉光設人の名で投稿した。著書に「北設の花祭」「祇園祭と笹踊」「三河万歳」「豊橋鬼祭」などがある。昭和25(1950)年,日本民俗学会評議員・豊橋市史編纂委員・三河郷土学会理事などを務めた。昭和41(1966)年5月10日,没した。
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