いせとせん
伊勢渡船とは,江戸時代に存在した吉田(豊橋)湊から伊勢の川崎・神社(かみやしろ)などの湊へ渡る船便のことである。多くは三河以東から伊勢参宮をする旅人の近道として使われた。伊勢への渡船は吉田宿船町が事業を独占し,その運賃から上前銭を徴収することが認められていた。船町の訴えによって,梅田川河口の高足(たかし)・大崎・草間の各村からの出船が禁止されている。一方で,寛政10(1798)年には東海道宮宿・佐屋路佐屋宿から七里の渡し・三里の渡しの利用者が減っていることを理由に吉田湊からの渡船を停止するようにとの訴えがあったが,ほぼ従来通り船町の特権が認められた。吉田からの伊勢渡船により街道筋の宿場にも影響を与えるほどであったことがわかる。「三州吉田船町史稿」によれば,享保14(1729)年から寛政9(1797)年までの渡航者数の平均は年間4000人ほどであったが,おかげ参りが流行した明和8(1771)年には1万4000人余りに増加している。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
伊勢渡船とは,江戸時代に存在した吉田(豊橋)湊から伊勢の川崎・神社(かみやしろ)などの湊へ渡る船便のことである。多くは三河以東から伊勢参宮をする旅人の近道として使われた。伊勢への渡船は吉田宿船町が事業を独占し,その運賃から上前銭を徴収することが認められていた。船町の訴えによって,梅田川河口の高足(たかし)・大崎・草間の各村からの出船が禁止されている。一方で,寛政10(1798)年には東海道宮宿・佐屋路佐屋宿から七里の渡し・三里の渡しの利用者が減っていることを理由に吉田湊からの渡船を停止するようにとの訴えがあったが,ほぼ従来通り船町の特権が認められた。吉田からの伊勢渡船により街道筋の宿場にも影響を与えるほどであったことがわかる。「三州吉田船町史稿」によれば,享保14(1729)年から寛政9(1797)年までの渡航者数の平均は年間4000人ほどであったが,おかげ参りが流行した明和8(1771)年には1万4000人余りに増加している。
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