いまがわ・よしもと(1519~60)
今川義元は,永正16(1519)年,今川氏親(1470~1526)の3男に生まれた。はじめ僧となったが,天文5(1536)年長兄氏輝の死により次兄と家督を争い,翌6(37)年還俗(げんぞく)して治部大輔兼駿河守となった。駿河・遠江(とおとうみ)・三河の3国を支配下におさめた。
今川義元は,天文5(1536)年松平広忠を援助して岡崎城に入り,同15(46)年戸田宣成が在城した今橋(豊橋)城を落城させ,城代を置いて支配した。東三河の土豪(17人郷士)を従え,検地を行い,伝馬の制を整え,寺領を与え,社殿の造営を行った。特に,天文22(1553)年には安海(やすみ)熊野社に永銭10貫余文の地を寄進した。また,境内において魚市をたて,表浜一帯でとれた魚類を売買させ,その口銭で社殿の造営・祭祀の料にあてることを免許した。
永禄3(1560)年5月19日上洛の途上,尾張国桶狭間で織田信長(1534~82)に討たれた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
今川義元は,永正16(1519)年,今川氏親(1470~1526)の3男に生まれた。はじめ僧となったが,天文5(1536)年長兄氏輝の死により次兄と家督を争い,翌6(37)年還俗(げんぞく)して治部大輔兼駿河守となった。駿河・遠江(とおとうみ)・三河の3国を支配下におさめた。
今川義元は,天文5(1536)年松平広忠を援助して岡崎城に入り,同15(46)年戸田宣成が在城した今橋(豊橋)城を落城させ,城代を置いて支配した。東三河の土豪(17人郷士)を従え,検地を行い,伝馬の制を整え,寺領を与え,社殿の造営を行った。特に,天文22(1553)年には安海(やすみ)熊野社に永銭10貫余文の地を寄進した。また,境内において魚市をたて,表浜一帯でとれた魚類を売買させ,その口銭で社殿の造営・祭祀の料にあてることを免許した。
永禄3(1560)年5月19日上洛の途上,尾張国桶狭間で織田信長(1534~82)に討たれた。
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