にんちょうじ
慧日山仁長寺(真宗大谷派)の創立は,明応年間(1492~1501)で,もとは伊奈村(宝飯郡小坂井町)にあったが,天正2(1574)年吉田下リ町(豊橋市花園町)の現在地に移転してきた。開山は蓮如上人の法孫と伝えられている専光坊順故法師である。本尊は阿弥陀如来立像である。この本尊の作者年代ともに不明であるが,その裏書には「釈・宣如・花押,木仏本像,寛永十七庚辰仲秋時正,三河国宝飯郡吉田仁長寺願主順西」とある。寛永17(1640)年この時はじめて木像本尊を安置したことが記録上明らかである。
江戸時代の建物については明らかではないが,明治17(1884)年入母屋造り流向拝の本堂を新築,さらに同29(96)年仏教学者南条文雄撰文の梵鐘(ぼんしょう)を新鋳し,鐘楼(しょうろう)を新築した。昭和20(1945)年6月の空襲により全伽藍(がらん)を焼失したが,本尊仏,過去帳その他の重要文書は災火を免れた。第2次世界大戦後は墓碑の移転整理をし,昭和24(1949)年から本堂再建にとりかかり,同30(55)年,入母屋造り流向拝の伽藍を完成した。その後,昭和38(1963)年書院を新築し,さらに平成10(1998)年庫裏(くり)を新築した。
関連項目 - 豊橋別院(豊橋市花園町)
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
慧日山仁長寺(真宗大谷派)の創立は,明応年間(1492~1501)で,もとは伊奈村(宝飯郡小坂井町)にあったが,天正2(1574)年吉田下リ町(豊橋市花園町)の現在地に移転してきた。開山は蓮如上人の法孫と伝えられている専光坊順故法師である。本尊は阿弥陀如来立像である。この本尊の作者年代ともに不明であるが,その裏書には「釈・宣如・花押,木仏本像,寛永十七庚辰仲秋時正,三河国宝飯郡吉田仁長寺願主順西」とある。寛永17(1640)年この時はじめて木像本尊を安置したことが記録上明らかである。
江戸時代の建物については明らかではないが,明治17(1884)年入母屋造り流向拝の本堂を新築,さらに同29(96)年仏教学者南条文雄撰文の梵鐘(ぼんしょう)を新鋳し,鐘楼(しょうろう)を新築した。昭和20(1945)年6月の空襲により全伽藍(がらん)を焼失したが,本尊仏,過去帳その他の重要文書は災火を免れた。第2次世界大戦後は墓碑の移転整理をし,昭和24(1949)年から本堂再建にとりかかり,同30(55)年,入母屋造り流向拝の伽藍を完成した。その後,昭和38(1963)年書院を新築し,さらに平成10(1998)年庫裏(くり)を新築した。
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