にれんぎじょう
二連木城(古文書などには「二連木」の表記が多い)は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天文十年戸田丹波入道宣光,法名全香,新築之,同主殿助尚舍息,丹波守重定賜松平称号」とある。明応2(1493)年,戸田宗光により築かれ,以後二連木戸田氏の居城として天正18(1590)年まで続いた。中世城館として築城,廃城ともに年代が明らかな珍しい例である。築城理由については,今川氏の船形山城に対抗するためとも,豊川(とよがわ)伝いに徐々に勢力を伸ばしていた牧野氏に対するためともいわれる。
元亀2(1571)年に武田信玄が吉田(豊橋)に攻め込んだ際には,二連木城は武田方に占拠された。また,天正3(1575)年には,武田勝頼の攻撃を受けるなどの戦闘が繰り広げられた。城址(じょうし)は,大口公園と仁連木老人福祉センターとその周辺で,公園内に曲輪(くるわ)・堀・土塁が確認できる。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河二連木」や地籍図などから,その規模は200m×150m程度と考えられる。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
二連木城(古文書などには「二連木」の表記が多い)は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天文十年戸田丹波入道宣光,法名全香,新築之,同主殿助尚舍息,丹波守重定賜松平称号」とある。明応2(1493)年,戸田宗光により築かれ,以後二連木戸田氏の居城として天正18(1590)年まで続いた。中世城館として築城,廃城ともに年代が明らかな珍しい例である。築城理由については,今川氏の船形山城に対抗するためとも,豊川(とよがわ)伝いに徐々に勢力を伸ばしていた牧野氏に対するためともいわれる。
元亀2(1571)年に武田信玄が吉田(豊橋)に攻め込んだ際には,二連木城は武田方に占拠された。また,天正3(1575)年には,武田勝頼の攻撃を受けるなどの戦闘が繰り広げられた。城址(じょうし)は,大口公園と仁連木老人福祉センターとその周辺で,公園内に曲輪(くるわ)・堀・土塁が確認できる。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河二連木」や地籍図などから,その規模は200m×150m程度と考えられる。
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