ふたがわしゅく
二川宿は,品川宿より数えて33番目の宿場町である。二川は,本郷の地(三弥町付近)にあった集落が,天正13(1585)年ごろ元屋敷(二川町元屋敷)の地に移ったと伝えられる。この地で慶長6(1601)年12町(約1.3㎞)ほど西方の大岩村とともに東海道の宿場に指定され,2村で1宿分の伝馬継立を行った。正保元(1644)年両村は移転を命ぜられ,大岩はやや東方に,二川は大岩村地内に入り込む形で西方に移転し一続きの町並が形成された。
二川宿と加宿大岩村では人馬継立のために用意すべき御定人馬(東海道では100人・100疋)を50人・50疋ずつ等分に負担した。人馬継立を行う問屋場(といやば)も一時期を除いて二川と大岩のそれぞれにあった。また問屋(といや)・年寄などの宿役人もそれぞれの村から出していた。二川宿は,年貢を納める農村として幕府代官所や大名の支配を受け,人馬継立などの街道に関することでは加宿大岩村とともに幕府道中奉行の支配を受けていた。
天保14(1843)年ごろの「東海道宿村大概帳」では,加宿大岩村を含めた町並の長さ12町26間(約1.3㎞),人口1468(男721・女734,合計あわず),家数328,本陣1,脇本陣1,旅(はた)籠屋(ごや)38で,東海道53次中,人口で42番目,家数で41番目,旅籠屋数で35番目であり,東海道の宿場の中では小規模な宿場であった。
二川宿の町並は加宿大岩町との境に建つ高札場より東に中町・新橋町・東町と続いており,中町が二川宿の中心地で,本陣・脇本陣・旅籠屋・問屋場などの伝馬継立や宿泊施設が集中していた。家数・人口は,慶応元(1865)年には200軒・794人となっている。慶応3年の記録では,二川宿には本陣1・脇本陣1・旅籠屋25・質屋5・茶屋2・米屋5・醤油屋1・味噌屋1・居酒屋3・魚屋2・髪結床2・家大工2・左官2・鍵屋1などがあった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
二川宿は,品川宿より数えて33番目の宿場町である。二川は,本郷の地(三弥町付近)にあった集落が,天正13(1585)年ごろ元屋敷(二川町元屋敷)の地に移ったと伝えられる。この地で慶長6(1601)年12町(約1.3㎞)ほど西方の大岩村とともに東海道の宿場に指定され,2村で1宿分の伝馬継立を行った。正保元(1644)年両村は移転を命ぜられ,大岩はやや東方に,二川は大岩村地内に入り込む形で西方に移転し一続きの町並が形成された。
二川宿と加宿大岩村では人馬継立のために用意すべき御定人馬(東海道では100人・100疋)を50人・50疋ずつ等分に負担した。人馬継立を行う問屋場(といやば)も一時期を除いて二川と大岩のそれぞれにあった。また問屋(といや)・年寄などの宿役人もそれぞれの村から出していた。二川宿は,年貢を納める農村として幕府代官所や大名の支配を受け,人馬継立などの街道に関することでは加宿大岩村とともに幕府道中奉行の支配を受けていた。
天保14(1843)年ごろの「東海道宿村大概帳」では,加宿大岩村を含めた町並の長さ12町26間(約1.3㎞),人口1468(男721・女734,合計あわず),家数328,本陣1,脇本陣1,旅(はた)籠屋(ごや)38で,東海道53次中,人口で42番目,家数で41番目,旅籠屋数で35番目であり,東海道の宿場の中では小規模な宿場であった。
二川宿の町並は加宿大岩町との境に建つ高札場より東に中町・新橋町・東町と続いており,中町が二川宿の中心地で,本陣・脇本陣・旅籠屋・問屋場などの伝馬継立や宿泊施設が集中していた。家数・人口は,慶応元(1865)年には200軒・794人となっている。慶応3年の記録では,二川宿には本陣1・脇本陣1・旅籠屋25・質屋5・茶屋2・米屋5・醤油屋1・味噌屋1・居酒屋3・魚屋2・髪結床2・家大工2・左官2・鍵屋1などがあった。
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豊橋市議の長坂です。
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