まるやま・かおる(1899~1974)
丸山薫は,明治32(1899)年6月8日,父の任地大分市で生まれた。父・重俊は熊本藩士の家に生まれ,内務省に勤務した。丸山薫の出生時は,大分県警察部長であった。その後,島根県知事となったが,明治44(1911)年,病気のため死去した。そのため母・竹子は豊橋の父・市川信順の屋敷(豊橋市瓦町)に住んだ。
東京高等商船学校に入学したが,病気のため退学した。大正10(1921)年,第三高等学校文科丙類に入学し,同15(26)年には,東京帝国大学国文科に入学し同人誌「新思潮」(第9次)に参加した。また,百田宗次主宰の「椎の木」に19編の詩を発表した。昭和3(1928)年,大学を中退し,同7(32)年,第一詩集「帆・ランプ・鴎」を刊行した。昭和9(1934)年,堀辰雄・三好達治・丸山薫の共同編集で「四季」を発刊した。以後,昭和19(1944)年の終刊号(第81号)まで多くの同人が加わり,主知的抒情詩が発表された。
昭和20(1945)年,山形県西村山郡岩根沢村(西村山郡西川町)に疎開し,岩根沢国民学校の代用教員となった。しかし,昭和22(47)年,代用教員を辞し,詩作に専念した。翌昭和23(1948)年,豊橋に移り,豊橋市東田(あずまだ)町東前山の旧師森夢筆宅の一画を借りて住んだ。
昭和29(1954)年,第5回豊橋文化賞を受賞した。昭和31(1956)年,豊橋市多米(ため)町蝉川に転居した。昭和32(1957)年,現代詩への貢献と後進の指導によって,第15回中日文化賞受賞,昭和34(1959)年,愛知大学客員教授となる。昭和42(1967)年「四季」を復刊した。昭和49(1974)年10月21日,没した。詩集に,「帆・ランプ・鴎」「鶴の葬式」「幼年」「連れ去られた海」などがある。昭和56(1981)年,豊橋市高師町北原の高師緑地公園に,詩碑が建立された。
参考文献 - 丸山薫「丸山薫全集」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
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丸山薫は,明治32(1899)年6月8日,父の任地大分市で生まれた。父・重俊は熊本藩士の家に生まれ,内務省に勤務した。丸山薫の出生時は,大分県警察部長であった。その後,島根県知事となったが,明治44(1911)年,病気のため死去した。そのため母・竹子は豊橋の父・市川信順の屋敷(豊橋市瓦町)に住んだ。
東京高等商船学校に入学したが,病気のため退学した。大正10(1921)年,第三高等学校文科丙類に入学し,同15(26)年には,東京帝国大学国文科に入学し同人誌「新思潮」(第9次)に参加した。また,百田宗次主宰の「椎の木」に19編の詩を発表した。昭和3(1928)年,大学を中退し,同7(32)年,第一詩集「帆・ランプ・鴎」を刊行した。昭和9(1934)年,堀辰雄・三好達治・丸山薫の共同編集で「四季」を発刊した。以後,昭和19(1944)年の終刊号(第81号)まで多くの同人が加わり,主知的抒情詩が発表された。
昭和20(1945)年,山形県西村山郡岩根沢村(西村山郡西川町)に疎開し,岩根沢国民学校の代用教員となった。しかし,昭和22(47)年,代用教員を辞し,詩作に専念した。翌昭和23(1948)年,豊橋に移り,豊橋市東田(あずまだ)町東前山の旧師森夢筆宅の一画を借りて住んだ。
昭和29(1954)年,第5回豊橋文化賞を受賞した。昭和31(1956)年,豊橋市多米(ため)町蝉川に転居した。昭和32(1957)年,現代詩への貢献と後進の指導によって,第15回中日文化賞受賞,昭和34(1959)年,愛知大学客員教授となる。昭和42(1967)年「四季」を復刊した。昭和49(1974)年10月21日,没した。詩集に,「帆・ランプ・鴎」「鶴の葬式」「幼年」「連れ去られた海」などがある。昭和56(1981)年,豊橋市高師町北原の高師緑地公園に,詩碑が建立された。
参考文献 - 丸山薫「丸山薫全集」
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豊橋市議の長坂です。
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