なかやま・うまし(1775~1843)

 中山美石は,安永4(1775)年10月10日,吉田(豊橋)藩士中山弥助清勝の長男として生まれた。幼名を為蔵といった。その後,中山弥助美石と称した。寛政10(1798)年,郡奉行支配郷同心となった。文化2(1805)年本居大平(もとおりおおひら)に入門する。文化10(1813)年新居関所下役(5石2人扶持・士分)に取り立てられた。この間,「後撰集新抄」を刊行した。文化14(1817)年藩校時習館講釈方(儒学教授)に任命され,「国学唯今迄之通可心得」を命ぜられて,供小姓格30俵(中士)となった。文化15(1818)年「諸国風俗問状三河国吉田領答書」,翌文政2(1819)年「浜名橋大略考」,同5(22)年「於伎奈佐備(おきなさび)」,同7(24)年「吉田領孝子記事」を著した。天保2(1831)年藩主松平(大河内)信順(のぶより)が大坂城代となった時,大坂在番となる。天保3(1832)年,御錠口番(藩公の師格)を命じられた。

 天保6(1835)年息子・弥藤次豊村が35歳で没し,翌7(36)年孫・健太郎繁樹を嫡子とした。天保8(1837)年藩命により「飢饉の時の食物の大略」を著し,刊行(無料配布)した。天保8(1837)年以来城番兼在中教諭として,藩主・若殿(信宝(のぶたか))へ歌書講釈,下地聖眼寺・仁連木(にれんぎ)臨済寺などで在中教諭を行った。天保14(1943)年8月6日,没した。

 悟真寺の「中山美石翁之奥城」には,草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)による墓誌が記されている。孫・中山繁樹(1829~78)は家督を継いだ後,藩校時習館学問掛ならびに素読教方に挙げられ,明治2(1869)年京都皇学所句読師・京都大学校御用掛・京都府小属・松尾神社の祢宜(ねぎ)などを歴任した。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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