みうら・へきすい(1841~1915)
三浦碧水は,天保12(1841)年11月29日,吉田(豊橋)藩札元三浦深右衛門の2男に生まれた。幼名を陽次郎といい,字(あざな)を温夫と称した。文久のころ(1861~64),江戸に出て幕臣高畠眉山について西洋流兵学・砲術を学ぶ。慶応4(1868)年には,吉田藩歩兵指揮役・軍事局調役に挙げられた。明治元(1868)年には,民政局大録事に登用され,ついで豊橋藩少属として租税兼土木勧業貧院開墾掛を務めた。
明治8(1875)年,中村道太らと浅倉屋積金所を設けた。明治11(1878)年,渥美郡書記に就任し,翌12(79)年,第八国立銀行第2代頭取となった。明治22(1889)年,初代豊橋町長となり,同25(92)年,辞職した。しかし,明治28(1895)年,再度豊橋町長に選ばれた。この間,明治25(1892)年から同31(98)年の間,愛知県会議員を勤めた。また,明治27(1894)年,衆議院議員に当選した。
明治26(1893)年,杉田権次郎などと私立補修学校時習館を設立した。明治26(1893)年,豊橋商業会議所創立委員となり,副会頭・会頭となった。明治27(1894)年,豊橋米麦取引所を創設して監査役,同31(98)年,理事長に就任した。明治27(1894)年,設立された豊橋電燈株式会社社長,同29(96)年,豊橋製糸株式会社社長に就任した。大正4(1915)年2月27日,没した。昭和2(1927)年,願成寺(豊橋市東新(ひがししん)町)に胸像が建設されたが,同17(42)年金属回収されて,今はない。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
三浦碧水は,天保12(1841)年11月29日,吉田(豊橋)藩札元三浦深右衛門の2男に生まれた。幼名を陽次郎といい,字(あざな)を温夫と称した。文久のころ(1861~64),江戸に出て幕臣高畠眉山について西洋流兵学・砲術を学ぶ。慶応4(1868)年には,吉田藩歩兵指揮役・軍事局調役に挙げられた。明治元(1868)年には,民政局大録事に登用され,ついで豊橋藩少属として租税兼土木勧業貧院開墾掛を務めた。
明治8(1875)年,中村道太らと浅倉屋積金所を設けた。明治11(1878)年,渥美郡書記に就任し,翌12(79)年,第八国立銀行第2代頭取となった。明治22(1889)年,初代豊橋町長となり,同25(92)年,辞職した。しかし,明治28(1895)年,再度豊橋町長に選ばれた。この間,明治25(1892)年から同31(98)年の間,愛知県会議員を勤めた。また,明治27(1894)年,衆議院議員に当選した。
明治26(1893)年,杉田権次郎などと私立補修学校時習館を設立した。明治26(1893)年,豊橋商業会議所創立委員となり,副会頭・会頭となった。明治27(1894)年,豊橋米麦取引所を創設して監査役,同31(98)年,理事長に就任した。明治27(1894)年,設立された豊橋電燈株式会社社長,同29(96)年,豊橋製糸株式会社社長に就任した。大正4(1915)年2月27日,没した。昭和2(1927)年,願成寺(豊橋市東新(ひがししん)町)に胸像が建設されたが,同17(42)年金属回収されて,今はない。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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豊橋市議の長坂です。
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