みかわさいばんしょ

 三河裁判所は,明治新政府の地方民政機関である。裁判所は全国で12か所設置された。三河裁判所は,明治元(1868)年4月から同元(68)年6月まで,吉田(豊橋)関屋町の悟真寺に置かれた。三河・遠江(とおとうみ)・駿河の3国を管轄区域とし,幕府直轄領(天領)および旗本知行地,寺社領を支配することを任務としたが,実際には天領の支配にとどまったようである。

 三河裁判所の総督には弱冠24歳の公家平松甲斐権介時厚,権判事には吉田(豊橋)藩士山本一郎(山本速夫,本名亀井孫六)が就任した。実務担当の役人には,旧中泉代官の大竹庫三郎をはじめ旧代官所の役人や吉田藩士(23人)など,地元の藩士が多く任用されている。その中で,異彩を放つのは稲橋村(北設楽郡稲武町)の豪農古橋源六郎であった。

 明治元(1868)年閏4月政府は機構改革を行い,地方制度を府・藩・県とし(府藩県三治制)各地の裁判所を府・県に改組した。三河裁判所も明治元(1868)年6月廃止され,三河県に引き継がれた。豊橋市内で三河裁判所に属したのは二川宿,大岩村であった。

 関連項目 - 山本速夫

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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