ゆにちか
ユニチカ株式会社は,明治22(1889)年有限責任尼崎紡績会社として発足し,大正7(1918)年摂津紡績を合併して大日本紡績株式会社となった。昭和39(1964)年ニチボーと改称,同44(69)年に日本レイヨンと合併してユニチカ株式会社と社名変更した。
ユニチカ株式会社豊橋営業所は,昭和26(1951)年高師原開拓地の豊橋市曙町(昭和28年町名設定)に,豊橋市が土地8万1638坪および渥美線(豊橋鉄道)高師駅からの引込線(昭和51年廃止)を提供して,生産能力は紡錘6万4320錘・織機816台,従業員2000人の大日本紡績豊橋工場を誘致したものである。
豊橋工場は,昭和43(1968)年第2工場を竣工したが,同58(83)年には第2工場に産業用プリント配線板製造のユーアイ電子株式会社を設立した。昭和62(1987)年プリント配線事業を拡大,平成8(1996)年に綿紡織設備を廃止して豊橋事業所となった。現在は,生活健康事業ユニチカハナビラタケの人工栽培や,スパンボンド製品の製造および物流事業・不動産事業を行っている。
参考文献 - ユニチカ社史編集委員会「ユニチカ百年史」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
ユニチカ株式会社は,明治22(1889)年有限責任尼崎紡績会社として発足し,大正7(1918)年摂津紡績を合併して大日本紡績株式会社となった。昭和39(1964)年ニチボーと改称,同44(69)年に日本レイヨンと合併してユニチカ株式会社と社名変更した。
ユニチカ株式会社豊橋営業所は,昭和26(1951)年高師原開拓地の豊橋市曙町(昭和28年町名設定)に,豊橋市が土地8万1638坪および渥美線(豊橋鉄道)高師駅からの引込線(昭和51年廃止)を提供して,生産能力は紡錘6万4320錘・織機816台,従業員2000人の大日本紡績豊橋工場を誘致したものである。
豊橋工場は,昭和43(1968)年第2工場を竣工したが,同58(83)年には第2工場に産業用プリント配線板製造のユーアイ電子株式会社を設立した。昭和62(1987)年プリント配線事業を拡大,平成8(1996)年に綿紡織設備を廃止して豊橋事業所となった。現在は,生活健康事業ユニチカハナビラタケの人工栽培や,スパンボンド製品の製造および物流事業・不動産事業を行っている。
参考文献 - ユニチカ社史編集委員会「ユニチカ百年史」
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豊橋市議の長坂です。
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