あくみにんぎょうじょうるり
「飽海人形浄瑠璃」(吉田文楽保存会)は,平成2年(1990)年3月26日,豊橋市無形民俗文化財に指定された。
吉田文楽は,古くは「飽海人形浄瑠璃」と呼ばれ,豊橋市飽海町に伝わる伝統芸能である。慶長年間(1596~1615),傀儡(くぐつ)人形を携えて都落ちしてきた京都の公卿が飽海の住民に人形を操る技術を指導したのが始まりとされ,祭礼などで演じられるようになって地域に定着した。安政年間(1854~60),牛川の松坂磯五郎が大坂文楽座にて3人遣いの人形の指導を受け,吉田玉五郎の芸名で活躍した。明治中期には豊橋に帰郷した松坂磯五郎によって牛川にも文楽一座が組織された。さらに同時期より飽海の一座も3人遣いの人形を取り入れ,活動を展開,地域全体で文楽人気が盛り上がった。大正時代には大阪の名人形師吉田冠三とその弟子巳之助(重要無形文化財保持者,吉田文五郎)が豊橋を訪れ,飽海の人形師を指導し,その技術を飛躍的に発展させた。その後,第2次世界大戦の影響で活動が中断,人形も数多く失われ戦後の再興が危ぶまれたが,昭和23(1948)年の,第2次世界大戦戦没者追善供養のための公演をきっかけに豊橋市飽海町有志により復活した。現在は,豊橋市飽海町の人形師たちの子弟と豊橋市内全域から集まった市民有志で組織される「吉田文楽保存会」により伝承されている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
「飽海人形浄瑠璃」(吉田文楽保存会)は,平成2年(1990)年3月26日,豊橋市無形民俗文化財に指定された。
吉田文楽は,古くは「飽海人形浄瑠璃」と呼ばれ,豊橋市飽海町に伝わる伝統芸能である。慶長年間(1596~1615),傀儡(くぐつ)人形を携えて都落ちしてきた京都の公卿が飽海の住民に人形を操る技術を指導したのが始まりとされ,祭礼などで演じられるようになって地域に定着した。安政年間(1854~60),牛川の松坂磯五郎が大坂文楽座にて3人遣いの人形の指導を受け,吉田玉五郎の芸名で活躍した。明治中期には豊橋に帰郷した松坂磯五郎によって牛川にも文楽一座が組織された。さらに同時期より飽海の一座も3人遣いの人形を取り入れ,活動を展開,地域全体で文楽人気が盛り上がった。大正時代には大阪の名人形師吉田冠三とその弟子巳之助(重要無形文化財保持者,吉田文五郎)が豊橋を訪れ,飽海の人形師を指導し,その技術を飛躍的に発展させた。その後,第2次世界大戦の影響で活動が中断,人形も数多く失われ戦後の再興が危ぶまれたが,昭和23(1948)年の,第2次世界大戦戦没者追善供養のための公演をきっかけに豊橋市飽海町有志により復活した。現在は,豊橋市飽海町の人形師たちの子弟と豊橋市内全域から集まった市民有志で組織される「吉田文楽保存会」により伝承されている。
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