どうたくちゅう
「銅鐸鈕」1口(東観音寺蔵)は,昭和9(1934)年7月31日,国の重要美術品(考古学資料)に認定され,同61(86)年3月28日,豊橋市有形文化財(考古資料)に指定された。
昭和9(1934)年7月31日の告示に「袈裟襷(けさだすき)文銅鐸鈕」伝静岡県浜名郡白須賀町鍛冶ヶ谷出土とある。
東観音寺(豊橋市小松原町)の「銅鐸鈕」は,本来の吊り手である鈕とそのすぐ下に付く平坦な舞の部分のみで,発見当初遺存していた身の一部は切り取られており,加工した痕跡が確認できる。残存高は34.2㎝で,復元すると総高は110㎝ほどと推測される。鈕の形状や飾耳の存在から,この銅鐸は近畿式と呼ばれる系統に属し,弥生時代後期に制作されたとされている。またこの銅鐸は,「白須賀銅鐸」と呼ばれ,享和元(1801)年に浜名郡白須賀(現湖西市白須賀)の字鍛冶ヶ谷から出土した2個のうちの1個(1号銅鐸)とされるが,2号銅鐸については発見直後に散逸している。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
「銅鐸鈕」1口(東観音寺蔵)は,昭和9(1934)年7月31日,国の重要美術品(考古学資料)に認定され,同61(86)年3月28日,豊橋市有形文化財(考古資料)に指定された。
昭和9(1934)年7月31日の告示に「袈裟襷(けさだすき)文銅鐸鈕」伝静岡県浜名郡白須賀町鍛冶ヶ谷出土とある。
東観音寺(豊橋市小松原町)の「銅鐸鈕」は,本来の吊り手である鈕とそのすぐ下に付く平坦な舞の部分のみで,発見当初遺存していた身の一部は切り取られており,加工した痕跡が確認できる。残存高は34.2㎝で,復元すると総高は110㎝ほどと推測される。鈕の形状や飾耳の存在から,この銅鐸は近畿式と呼ばれる系統に属し,弥生時代後期に制作されたとされている。またこの銅鐸は,「白須賀銅鐸」と呼ばれ,享和元(1801)年に浜名郡白須賀(現湖西市白須賀)の字鍛冶ヶ谷から出土した2個のうちの1個(1号銅鐸)とされるが,2号銅鐸については発見直後に散逸している。
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