とよはしどうめいしんぶん
「豊橋同盟新聞」は,戦時下の国策に従い,昭和13(1938)年11月1日に,豊橋市内の日刊6紙(参陽新報・新朝報・豊橋日日新聞・大衆新聞・東海朝日新聞・あさひ新聞)が合併して創刊された。西八町の参陽新報社跡に本社を置き,後に豊橋市札木町に社屋を移した。創刊号には,愛知県知事田中広太郎,豊橋市長大口喜六,豊橋商工会議所会頭河合孜郎が祝辞を寄せている。
初代社長高橋小十郎,総務河合陸郎,主筆兼編集長内田駿,編集顧問高崎信吉,営業部長石積保雄であった。後に社長は,津具鉱山社長倉田藤四郎に,主幹河合陸郎,高崎信吉に代わった。河合陸郎は,北有格のペンネームで「独りごと」というコラムを連載したが,後に実業界に進出したため高崎信吉が中心となって発行した。
豊橋同盟新聞は,第2次世界大戦下の戦時統制,1県1紙政策により昭和17(1942)年8月31日,通算1万4844号で廃刊となった。愛知県では,新愛知と名古屋新聞の合併により中部日本新聞(中日新聞)が創刊された。豊橋同盟新聞の廃刊によって,明治32(1899)年の参陽新報創刊以来の豊橋地方の日刊紙の歴史に幕が下ろされた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
「豊橋同盟新聞」は,戦時下の国策に従い,昭和13(1938)年11月1日に,豊橋市内の日刊6紙(参陽新報・新朝報・豊橋日日新聞・大衆新聞・東海朝日新聞・あさひ新聞)が合併して創刊された。西八町の参陽新報社跡に本社を置き,後に豊橋市札木町に社屋を移した。創刊号には,愛知県知事田中広太郎,豊橋市長大口喜六,豊橋商工会議所会頭河合孜郎が祝辞を寄せている。
初代社長高橋小十郎,総務河合陸郎,主筆兼編集長内田駿,編集顧問高崎信吉,営業部長石積保雄であった。後に社長は,津具鉱山社長倉田藤四郎に,主幹河合陸郎,高崎信吉に代わった。河合陸郎は,北有格のペンネームで「独りごと」というコラムを連載したが,後に実業界に進出したため高崎信吉が中心となって発行した。
豊橋同盟新聞は,第2次世界大戦下の戦時統制,1県1紙政策により昭和17(1942)年8月31日,通算1万4844号で廃刊となった。愛知県では,新愛知と名古屋新聞の合併により中部日本新聞(中日新聞)が創刊された。豊橋同盟新聞の廃刊によって,明治32(1899)年の参陽新報創刊以来の豊橋地方の日刊紙の歴史に幕が下ろされた。
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では!