かわらまちかいはつおぼえ
「河原町開発覚」(稿本 延享元年ごろ)は,現在の豊橋市瓦町に関する開発覚である。筆者は当時瓦町の庄屋で,鎮守神明宮の神主も兼ねていた佐藤弥七信長と推定される。本書の内容は,寛文2(1662)年から延享2(1745)年8月までの84年間にわたる瓦町の開発・発展の記録である。寛文2(1662)年,仁連木(にれんぎ)村の佐藤弥七の父,佐藤弥八郎は,新村分立を願い出たが認められず,翌3(63)年藩主小笠原忠知が死去し,翌4(64)年仁連木村に菩提寺・臨済寺を建てるについて,十王坂上より東坂口まで屋敷割りをして新村分立が認められた。
西は十王堂(願成寺)坂上から東は円六橋までの東海道沿いに20軒の百姓が移住した。後に家数113軒(本百姓85・庄屋1・組頭1・水呑百姓26),人数547人,馬2疋,寺3か寺とある。寺3か寺とは開村時に仁連木村より移転してきた不動院と,大津村(豊橋市老津町)より延宝8(1680)年移転してきて元禄6(1693)年に公称寺号を許された寿千寺(寿泉寺)と,寛文10(1670)年に十王堂を建て元禄16(1703)年に寺号を改めた善明寺であった。善明寺は明治以後廃寺となった。同地に,大正10(1921)年,願成寺が移転してきた。また,鎮守氏神としては,寛文5(1665)年に仁連木村の神明宮を勧請した。向山溜池(向山大池)・岩鼻池についても書き記してある。なお,「河原町開発覚」の翻刻は,「豊橋市史」第7巻に掲載されている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
「河原町開発覚」(稿本 延享元年ごろ)は,現在の豊橋市瓦町に関する開発覚である。筆者は当時瓦町の庄屋で,鎮守神明宮の神主も兼ねていた佐藤弥七信長と推定される。本書の内容は,寛文2(1662)年から延享2(1745)年8月までの84年間にわたる瓦町の開発・発展の記録である。寛文2(1662)年,仁連木(にれんぎ)村の佐藤弥七の父,佐藤弥八郎は,新村分立を願い出たが認められず,翌3(63)年藩主小笠原忠知が死去し,翌4(64)年仁連木村に菩提寺・臨済寺を建てるについて,十王坂上より東坂口まで屋敷割りをして新村分立が認められた。
西は十王堂(願成寺)坂上から東は円六橋までの東海道沿いに20軒の百姓が移住した。後に家数113軒(本百姓85・庄屋1・組頭1・水呑百姓26),人数547人,馬2疋,寺3か寺とある。寺3か寺とは開村時に仁連木村より移転してきた不動院と,大津村(豊橋市老津町)より延宝8(1680)年移転してきて元禄6(1693)年に公称寺号を許された寿千寺(寿泉寺)と,寛文10(1670)年に十王堂を建て元禄16(1703)年に寺号を改めた善明寺であった。善明寺は明治以後廃寺となった。同地に,大正10(1921)年,願成寺が移転してきた。また,鎮守氏神としては,寛文5(1665)年に仁連木村の神明宮を勧請した。向山溜池(向山大池)・岩鼻池についても書き記してある。なお,「河原町開発覚」の翻刻は,「豊橋市史」第7巻に掲載されている。
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