しんちょうほう
「新朝報」は,明治35(1902)年9月28日に豊橋で発刊された日刊紙で,4ページだて。購読料は1部1銭,月ぎめは1か月15銭であった。新朝報の前身は,明治33(1900)年11月に朝倉幾太郎が発行した「めざまし新聞」であった。毎月3回の発行であったが,明治34(1901)年3月1日発行の第12号より毎月10回の発行となった。明治34(1901)年6月に「社交新聞」と改題し日刊紙として発行した。明治35(1902)年9月28日の第430号より「新朝報」と改題して発行するようになった。
発行当初の編集人は鷺坂(さぎさか)安次郎,発行人は井沢欣三郎,印刷人は成瀬甚太郎であった。社屋は渥美郡豊橋町大字松葉に置いた。初代社長として経営に当たったのは,砂糖業を営んでいた遠藤長三郎であった。その後,豊橋市長となる近藤寿市郎が経営に当たった。初代社長遠藤長三郎は,実業談話会の組織者であった,遠藤安太郎の義弟であったため新朝報は,必然的に実業派を代弁するようになった。同志派を代弁する参陽新報とは,市政問題が起こるごとに言論戦を展開した。
初代主筆は河合弘毅であったが,その後宝飯郡大塚村出身の山口光円が主筆を務めた。山口は忙中閑話というコラムを担当し,参陽新報の近藤鹿堂とともに当時を代表する新聞記者であった。後の豊橋市長河合陸郎も大正10(1921)年より記者として勤めた。河合陸郎は,記者から主筆,社長となった。昭和13(1938)年11月豊橋市内の日刊6紙を合同して豊橋同盟新聞が創刊され,新朝報は終刊となった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
「新朝報」は,明治35(1902)年9月28日に豊橋で発刊された日刊紙で,4ページだて。購読料は1部1銭,月ぎめは1か月15銭であった。新朝報の前身は,明治33(1900)年11月に朝倉幾太郎が発行した「めざまし新聞」であった。毎月3回の発行であったが,明治34(1901)年3月1日発行の第12号より毎月10回の発行となった。明治34(1901)年6月に「社交新聞」と改題し日刊紙として発行した。明治35(1902)年9月28日の第430号より「新朝報」と改題して発行するようになった。
発行当初の編集人は鷺坂(さぎさか)安次郎,発行人は井沢欣三郎,印刷人は成瀬甚太郎であった。社屋は渥美郡豊橋町大字松葉に置いた。初代社長として経営に当たったのは,砂糖業を営んでいた遠藤長三郎であった。その後,豊橋市長となる近藤寿市郎が経営に当たった。初代社長遠藤長三郎は,実業談話会の組織者であった,遠藤安太郎の義弟であったため新朝報は,必然的に実業派を代弁するようになった。同志派を代弁する参陽新報とは,市政問題が起こるごとに言論戦を展開した。
初代主筆は河合弘毅であったが,その後宝飯郡大塚村出身の山口光円が主筆を務めた。山口は忙中閑話というコラムを担当し,参陽新報の近藤鹿堂とともに当時を代表する新聞記者であった。後の豊橋市長河合陸郎も大正10(1921)年より記者として勤めた。河合陸郎は,記者から主筆,社長となった。昭和13(1938)年11月豊橋市内の日刊6紙を合同して豊橋同盟新聞が創刊され,新朝報は終刊となった。
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