さんようしんぽう

 参陽新報は,豊橋で最初に発刊された日刊新聞で,4ページだて。外国ニュース・国内政治・社会ニュース・汽車時刻表・諸相場・小説・文芸・広告などで紙面が構成されていた。発売当初の購読料は,1か月20銭であった。参陽新報の前身は,明治28(1895)年に,月3回発行された豊橋広告新聞であるといわれている。

 参陽新報は,明治32(1899)年2月11日,豊橋広告新聞を改題し自由党系の新聞として発刊された。発起人は遊佐(ゆさ)発(ひらく),高須広治,平松市蔵らであった。社屋を渥美郡豊橋町大字八町に置いたが,その後,豊橋市紺屋町に移し,大正6(1917)年に豊橋市西八町に移転した。初代社長として経営に当たったのは,呉服町で書籍・筆墨業(豊川堂)を経営していた高須広治であった。その後,初代豊橋町長三浦碧水の甥の久野笹吉,南設楽郡東郷村(新城市)の中島猿之助,船町の高橋小十郎と経営者が代わった。経営者が代わるとともに改進党系の新聞となった。

 その後,豊橋の政界が同志派と実業派に分かれると,参陽新報は同志派を代弁する新聞として,実業派を代弁する新朝報と豊橋言論界を二分した。初代主筆は藤波泰吉(一哉)であった。藤波一哉は渥美郡伊良湖岬(渥美郡渥美町)出身で早稲田法律学校を卒業し中八町で弁護士を開業していた。藤波一哉の後を受けて主筆となったのは近藤鹿堂(ろくどう)であった。昭和期になると,後に東海テレビ社長となる鈴木充(たかし)も記者として活躍した。昭和2(1927)年の状況は,発行朝刊4ページ,購読料1か月50銭,東京市・名古屋市・新城町・蒲郡町・豊川町・浜松市・岡崎市・半田町・大阪市・田原町・二川町に支局を置いた。昭和13(1938)年11月豊橋市内の日刊6紙が合同して豊橋同盟新聞を創刊した時点で終刊となった。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog
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