愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

タグ:魚町

よしだ24ちょう  東海道吉田の宿は,慶長6(1601)年,松平(竹谷)家清以来の譜代の城下町であった。また,慶長6(1601)年,徳川家康が東海道に伝馬の制を実施して以来の宿場町であり,吉田川(豊川)の河口を扼(やく)する湊町である。江戸時代を通じての町数は,24町であ ...

やまだ・やすへい(1869~1938)  山田安平は,明治2(1869)年10月22日,山田安蔵の長男として生まれた。山田安平は家業を継ぎ,明治42(1909)年,一星青物市場に対抗して豊橋青乾物会社を河合虎三郎・倉橋源平・中島駒次・小山秀作・中村為太らと創立して,食料品・青果 ...

やまさちくわ  ヤマサちくわ株式会社は,文政10(1827)年,初代佐藤善作が讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)詣での帰途,竹輪(ちくわ)・蒲鉾(かまぼこ)・半ぺんに出会って,吉田(豊橋)魚町で製造を始めたといわれる。昭和15(1940)年,企業合同によって,豊橋水産食品有限 ...

やすみくまのしゃ  安海熊野社は,保延2(1136)年,鳥羽上皇の命により,熊野から快円法印が下向して建立したと伝える。その後,紀伊の人・鈴木重胤(しげたね)が宝飯郡佐脇村(宝飯郡御津町)に上陸し,この地に住み熊野権現の神主となった。牧野古白は,明応4(1495)年社 ...

めいじしょきのとよはしのしょうがっこう  明治5(1872)年8月,学制が発布され,翌6(73)年10月,豊橋には第10中学区第1番小学関屋学校(関屋町悟真寺)・第2番小学[校名不詳](紺屋町神宮寺)・第3番小学立志学校(世古町竜拈寺(りゅうねんじ))が設立された。明治10 ...

みょうりゅうじ  延兼山妙立寺(日蓮宗)の創立は,元中3(1386)年2月で,開山は日什上人である。永禄11(1568)年,徳川家康は宇津山城(湖西市入出)に大原肥前守鎮実を攻めたとき,妙立寺に本陣をおき,寺の梵鐘(ぼんしょう)を合図に攻撃して大勝利をおさめたと伝えられ ...

みょうえんじ  運立山妙円寺(顕本法華宗)は,文禄元(1592)年の創立で,開山は日円上人である。開基は吉田城主池田輝政である。池田輝政は天正18(1590)年7月,吉田(豊橋)城主となったとき,妙立寺(湖西市吉美)の日円上人に帰依し,上人登城の際の休息所として堂宇 ...

みがわりじぞう  嘉永7(1854)年11月4日,吉田(豊橋)を大地震が襲った時,神宮寺(豊橋市魚町)には手習いや遊びに集まった子どもたちが,80人ほどいた。地震で揺れ出した時,院主良伝法師の指示で,子どもたちは境内へ避難した。寺子屋にいた9歳のいさという魚屋十一屋 ...

まみづかむら  永正2(1505)年,牧野古白が馬見塚と飽海(あくみ)の地に今橋城を築いたという。また,馬見塚のもとの地は,後の吉田(豊橋)城の地である。今川氏親は,馬見塚の替え地として,渡辺平内次に三ツ相村120貫文をあてがったという。吉田方5か村は,寛永15(1638 ...

まちうら10かしょ  町裏10か所というのは,江戸時代末期に吉田(豊橋)町地と仁連木(にれんぎ)村・花ヶ崎村・羽田(はだ)村などとの接点にできた新興住宅地10か所である。 談合宮と中世古は安久美神戸(あくみかんべ)神明社の氏子で,現在の豊橋市談合町・中世古町である。野 ...

ほしの・しんご(1923~97)  星野真吾は,大正12(1923)8月15日,豊橋市魚町の星野文一郎の長男として生まれた。昭和19(1944)年,京都市立絵画専門学校図案科を修了し,日本画科に転科,同23(48)年卒業した。この年,三上誠・山崎隆・青山政吉・八木一夫・不動茂弥・ ...

ふるいち・もくだ(1727頃~1810)  古市木朶は,吉田(豊橋)で生まれた。父・古市猪左衛門とは2歳の時,母・よしとは7歳の時,死別した。そのため親戚の世話になり,14歳の時,犬山へ行って生業を習ったといわれる。20歳の時,名古屋の五条坊木児に入門して楚笠と名乗り, ...

ひしのはな  「ひしのはな」(京都橘屋治兵衛 文化9年)は,吉田(豊橋)の俳人古市木朶(ふるいちもくだ)(1727頃~1810)の追善俳諧集である。半紙本一冊67丁で如風の序,文化9(1812)年の瓦全の跋文がある。古市木芽(古市木朶の孫)が編纂し,京都橘屋治兵衛の版で蕉門 ...

はなまつり(はくさん)  白山比咩神社(豊橋市広小路三丁目)の祭礼は,旧暦6月17・18日であった。寛文5(1665)年神輿(みこし)が作られ,紺屋町(豊橋市魚町)の神宮寺境内の鎮守白山社と中柴町(豊橋市中柴町)の諏訪神社を結ぶ神輿渡御(とぎょ)が行われた。この神幸に従 ...

はくさんひめじんじゃ  白山比咩神社は,安海熊野社の脇宮として奉斎されたもので,往古は白山権現と称した。保延2(1136)年ごろ札木町に勧請,天正18(1590)年城地拡張に際して魚町に遷り,さらに南方に遷したものである。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村 ...

のうぎょうにちようしゅう  「農業日用集」(文政5年写本 文化2年稿本)は,吉田(豊橋)宿魚町の安海熊野社の神主鈴木梁満(1731頃~1817)が自らも農業をしながら,その経験から農作業のことを書き留めたものである。原本は鈴木家には存在せず羽田野敬雄写本と森田光尋写 ...

とよはし29ちょう  豊橋29町(明治11年)は,明治11(1878)年12月20日の郡区町村編制により,渥美郡曲尺手(かねんて)町・呉服町・三浦町・魚町・札木町(利(とぎ)町を合併)・本町(御輿休(みこしやすみ)町を合併)・上伝馬町(天王町を合併)・吉屋町(元鍛冶町が世古町を ...

とよはしちょう  豊橋町は,明治22(1889)年10月1日,町村制が施行され,船町・湊町・上伝馬町・八町・関屋町・本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町・下町・鍛冶町・松葉町・萱町・花園町・三浦町・指笠町・新銭町・魚町・紺屋町・神明町・清水町・手間町・吉屋町の2 ...

とよはししんぶん  「豊橋新聞」は,昭和27(1952)年10月,元中部日本新聞出版部長・渡辺登喜雄により創刊された。本社を豊橋市紺屋町(豊橋市魚町)に置き,当初は全判半裁2ページ,後にブランケット判4ページであった。その後社屋を豊橋市下地町に移転した。発足時は編集 ...

とよはしぎんこう  豊橋銀行は,明治25(1892)年9月豊橋魚町に設立された。明治18(1885)年東本願寺系の豊橋真利宝会が豊橋本町に資本金5万円で開業したものが発展的に解散して豊橋銀行となったものである。初代頭取は杉田権次郎であった。豊橋銀行は,明治29(1896)年に ...

たはらかいどう  田原街道は,東海道吉田(豊橋)の札木町と御輿休(みこしやすみ)町(豊橋市新本町)の境の横町から魚町へ通じ,魚町から東に移って,垉六(ほうろく)町・下リ町(花園町)を通り,新銭町・中柴町(平和通り)から柳生橋を経て田原へ通じる街道で,奥郡(おく ...

たなか・たしん(1824~1903)  田中田新は,文政7(1824)年3月15日,吉田(豊橋)魚町の田中新兵衛の子に生まれた。田中新九郎を改めて田中田新と名乗った。魚町で,石油ランプや灯油など開化物を商い,一代で財をなした。 明治9(1876)年,豊橋でロシア正教の洗礼を受 ...

たきざき・やすのすけ(1856~1912)  滝崎安之助は,安政3(1856)年9月11日,吉田(豊橋)魚町に生まれた。幼名を庄三郎と称した。明治10(1877)年家督を相続し,9代安之助を襲名した。明治10(1877)年合資組織の豊橋魚問屋を設立し,同12(79)年豊橋魚鳥会社の初代社 ...

だいいちぎんこう  第一銀行は,明治5(1872)年三井小野銀行として設立され,翌6(73)年国立銀行条例により第一国立銀行となり,同29(96)年株式会社第一銀行に改組した銀行である。 第一銀行豊橋支店は,大正12(1923)年に起きた取り付け騒ぎをきっかけに起こった豊橋 ...

そうじゅんかじ  宗淳火事は,江戸時代の吉田(豊橋)で起こった最も大規模な火災である。安永8(1779)年11月3日の明け方,吉田本町の医師藤井宗淳方から出火,折からの強風にあおられて,宿内中心部の本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下町・元新町と東 ...

すずき・やなまろ(1731頃~1817)  鈴木梁満は,吉田(豊橋)魚町の熊野権現(安海熊野(やすみくまの)社)の神主の家に生まれた。延享元(1744)年家職を継ぎ,はじめ鈴木伊予重房,後に鈴木土佐梁満と称した。遠江(とおとうみ)国浜松の杉浦国満(くにまろ)に学び,荷田春満 ...

すぎた・ゆうそうし(1907~85)  杉田有窓子,本名英一郎は,明治40(1907)年12月12日,豊橋市魚町の杉田八五郎の長男として生まれた。青山学院神学部予科,明治大学専門部史学科を卒業し,大和学園高等女学校,文部省維新史料編纂事務局,横浜専門学校に勤務した。昭和13 ...

しんめいこうえん  神明公園は,新大手通りと旧大手通りの間にある三角形の公園で,面積が2056㎡と小規模なものである。昭和26(1951)年,戦災復興の一環として造られた。昭和20(1945)年5月,強制疎開で立ち退きが行われ空地となり,豊橋空襲の際の避難場所になっていた ...

じんぐうじ  白雲山神宮寺(天台宗)は,吉田(豊橋)に長禅寺という禅宗寺院があったが荒廃していたので,慶長元(1596)年知多郡師崎(知多郡南知多町)の羽頭(はず)神社別当職神宮寺の初代重信法印が禅宗寺院長禅寺を再建して開山となり,神宮寺と称して天台宗に改めた。 ...

しんかわしょうがっこう  豊橋市立新川小学校は,明治34(1901)年4月,豊橋町新川字市南の竜拈寺(りゅうねんじ)前に豊橋町立南部尋常小学校(高等科は八町高等小学校に通学)として新設された。豊橋町呉服町・吉屋町・手間町・魚町・紺屋町・中世古町・神明町・清水町・花 ...

しんおおてどおり  新大手通りは,国道259号(田原街道)の起点の豊橋市八町通一丁目(国道1号)から神明公園(豊橋市魚町)に至る道路である。昭和24(1949)年,戦災復興土地区画整理により「大手通り」の西に新設された。豊橋鉄道市内線(路面電車)は,線路の複線化計 ...

しょうてんがい  商店街は,商業や地域の活性化のため,商業者などが共同して活動する組織である。豊橋市内の商店街の多くは,市内中心部に集中していて,商店街の中で,法人格をもつ商店街は14,任意組織の商店街(発展会)は51ある。法人格をもつ商店街は,札木商店街振興 ...

さとう・ぜんさく(1875~1964)  初代佐藤善作は,文政10(1827)年,讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)詣での途次に竹輪・蒲鉾(かまぼこ)・半ぺんに出会って,その製造を始めたといわれる。4代佐藤善作は,明治8(1875)年8月15日豊橋魚町の3代佐藤善作の長男に生まれ,幼名 ...

さとう・いっぺい(1903~81)  佐藤一平は,明治36(1903)年11月30日,豊橋町魚町の佐藤善六の長男として生まれた。京都帝国大学経済学部を卒業し,昭和3(1928)年高等文官試験司法科に合格し,同6(31)年神戸で弁護士を開業した。昭和21(1946)年豊橋で法律事務所を開 ...

こくぼ・ひこじゅうろう(1845~1918)  小久保彦十郎は,弘化2(1845)年3月29日,吉田魚町(豊橋)の油屋小久保彦十郎の子として生まれた。謡曲は宝生流をよくした。廃藩置県によって吉田藩主大河内家より,能面・能衣装が豊橋魚町に譲渡された。明治6(1873)年学区取締 ...

こくがくしゃ すずきやなまろ  「国学者 鈴木梁満」(日本図書刊行会 平成9年)は,山田久次による鈴木梁満(1731頃~1817)研究の成果をまとめた著作である。東三河の国学の概要について触れ,吉田(豊橋)宿魚町の安海熊野社の神主鈴木家の家系,鈴木梁満・重野・重実 ...

かわい・とくじろう(1898~1964)  河合徳次郎は,明治31(1898)年12月11日,豊橋清水町(豊橋市魚町)で河合金作の3男として生まれた。小学校を卒業後,講道館の三船久蔵について柔道を学んだ。大正9(1920)年整骨療院を開業,同15(26)年から豊橋商業学校・豊橋第二中 ...

かわい・しろう(1886~1966)  河合孜郎は,明治19(1886)年9月1日,永原整造の2男として広島に生まれた。明治43(1910)年山口高等商業学校を卒業し,翌44(11)年豊橋市魚町の河合虎三郎の養嗣子となった。大正4(1915)年豊橋青乾物取締役,同11(22)年豊橋委託運輸 ...

かねこ・たけしろう(1814頃~64)  金子健四郎は,文化11(1814)年(文化13年説もある),吉田(豊橋)魚町の魚商金子平四郎の4男に生まれた。幼名を利平あるいは武四郎といい,名を直通,号を豊水といった。吉田本町の薬舗鈴木孝本に剣を学んだ。江戸に出て,杉山東七郎 ...

おかだ・てつじ(1923~94)  岡田哲児は,大正12(1923)年8月15日,豊橋市中世古町の岡田善吉の5男として生まれた。昭和12(1937)年豊橋高等小学校を卒業し,同14(39)年名古屋鉄道教習所を修了,東海道線の機関区に配属され,機関士として乗務した。昭和19(1944)年徴 ...

おおてどおり  大手通りは,豊橋市札木町の東海道から,渥美郡髙師村福岡(豊橋市堂浦町)の柳生橋まで開通した道路大手線の通称名であったが,平成17(2005)年,豊橋市八町通二丁目の国道1号から同魚町の国道259号までの豊橋市道区間が,商店街の通称名「大手通り」となっ ...

うおまちのうきょうげんのめんとしょうぞく  「木造能面小飛出 伝赤鶴作,木造能面小べし見伝赤鶴作,木造能面大天神,木造能面平太,木造能面姥(うば),木造能面山姥(やまんば)」6面は,昭和17(1942)年12月16日,国の重要美術品(彫刻)に認定された。昭和20(1945)年6 ...

うおまち  豊橋の魚市場は,天文年中(1532~55),今川義元がこの地方に勢力を振るっていた時,渥美半島の片浜13里(遠江新居の今切口から伊良湖岬に至る遠江灘)の水揚げは全部魚町の安海(やすみ)熊野社境内で取り引きし,その2%を口銭として神社の修理費に充てたことに ...

うおでいり  嘉永4(1851)年から7年間にわたり,吉田(豊橋)魚町と牟呂村・前芝村の間に「魚出入」という争いが起きた。前年,嘉永3(1850)年には片浜13里(渥美半島の太平洋側)の海岸は鰯(いわし)の大漁にわいた。肥料用にその鰯を買った農民とそれを売った牟呂村,前 ...

うおいちば  魚市場は,天文年間(1532~55),今川義元(1519~60)から片浜13里の魚の販売権を与えられた。慶長6(1601)年に,熊野権現社境内の市開催が,伊奈備前守忠次によって継承された。 明治維新によりその特権を失い,明治9(1876)年,有志による問屋が開かれる ...

いけだ・てるまさ(1564~1613)  池田輝政は,永禄7(1564)年12月29日,池田恒興の2男として清洲に生まれた。天正18(1590)年,徳川家康の関東移封によって下総臼井(千葉県佐倉市)に転封した酒井家次にかわって,東三河4郡等15万2000石を領する吉田(豊橋)城主となっ ...

あんようじ(むかいやま)  妙向山安養寺(臨済宗妙心寺派)は,大正13(1924)年,渥美郡老津村(豊橋市老津町)から向山に移転した寺院である。創建は承安3(1173)年で,熊野山安養寺といい,天台宗の寺院であった。江戸時代からは老津の太平寺に属し,桂昌寺領から黒印 ...

あんどう・まさじろう(1855~1930)  安藤政次郎は,安政2(1855)年1月10日,吉田紺屋町(豊橋市魚町)に生まれた。明治13(1880)年横浜で新聞販売業を始め,読売小政として喧伝(けんでん)された。明治20(1887)年豊橋に帰って,花田村西宿(豊橋駅前・広小路一丁目)で ...

あめりかいみん  アメリカ移民として有名なのは,慶応義塾大学を創設した福沢諭吉の移民計画と外務大臣を務めた榎本武楊の移民計画であった。福沢諭吉は,アメリカのカリフォルニア州に日本村を建設する計画を立て,明治20(1887)年豊橋出身の中村道太に相談した。その結果 ...

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