ひがしみかわちいきけんきゅうせんたー 東三河地域研究センターは,昭和58(1983)年4月,東三河開発懇話会会員を母体として設立された。主な調査研究テーマは,豊川(とよがわ)流域圏の上下流連携や地域環境計画,県境地域の地域計画,産業技術開発,環境技術開発,港湾開 ...
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東三河 とは(豊橋百科事典より)
ひがしみかわ 東三河は,三河国の東部,古代の穂国(ほのくに)である。「国造本紀(こくぞうほんぎ)」泊瀬(はつせ)朝倉朝(雄略朝)に「以生江臣祖葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)命四世孫菟上足尼(うなかみすくね)定賜国造」とあり,菟上足尼は国造に任命され,小坂井を本拠と ...
万場調整池(豊橋市西赤沢町) とは(豊橋百科事典より)
ばんばちょうせいち 万場調整池は,豊橋市東赤沢町・西赤沢町の丘陵地を掘鑿して造られた表面遮水壁型フィルダム(堤高28.6m)の人工池である。満水面積343ha・有効貯水量500万立方メートルの規模で,豊川(とよがわ)総合用水事業により,平成元(1989)年に主要工事が完工 ...
ハマシギ とは(豊橋百科事典より)
はましぎ ハマシギ(シギ科)は,夏羽には腹に黒い模様がある小型のシギで,漢字で書くと「浜鴫」である。大きく群れて,何百羽がいっせいにUターンして,翼の裏の白が輝いたかと思うと,また,灰褐色の無数の点となって目の前を横切ったりする。春秋に通過するだけのもの ...
ハゼ とは(豊橋百科事典より)
はぜ ハゼ(ハゼ科)は,海水魚で,マハゼ,チチブ(ダボハゼ)などがある。マハゼは,全長は15~20㎝,尾びれの小黒斑(くろふ)が破線状の縞(しま)に見える。左右の腹びれは合わさって吸盤状となっている。豊川(とよがわ)や梅田川の河口などの砂泥底や泥底に生息し,雑食性 ...
萩平の不動滝(豊橋市石巻萩平町) とは(豊橋百科事典より)
はぎひらのふどうたき 萩平の不動滝は,豊橋市石巻萩平町の東部山間の沢にある滝で,全長約50mにわたり,落差50㎝前後の小さな滝が階段状に連なっている。沢への入り口に「荒沢不動」と記した木板があり,周囲にしめ縄が張られている。滝入り口への進入路は,豊川(とよがわ ...
農業産出額 とは(豊橋百科事典より)
のうぎょうさんしゅつがく 豊橋市の農業産出額(農業粗生産額)は,昭和40(1965)年に豊川(とよがわ)用水が二川サイホンまで通水することによって,画期的に増加する。また,昭和42(1967)年以来,農業粗生産額の増加率では,豊橋は日本一を続け,2.6倍,1.0倍,0.9倍と ...
ネコギギ とは(豊橋百科事典より)
ねこぎぎ ネコギギ(ナマズ亜目ギギ科)は,国の天然記念物に指定されている淡水魚で,全長は7~10㎝である。体色は黒褐色でヒゲをもち,カゲロウ,カワゲラの幼虫を常食とする。砂礫(されき)底の清流にすみ,夜行性で昼間は岩陰に潜んでいる。 三重県五十鈴(いすず)川か ...
二連木城(豊橋市仁連木(にれんぎ)町) とは(豊橋百科事典より)
にれんぎじょう 二連木城(古文書などには「二連木」の表記が多い)は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天文十年戸田丹波入道宣光,法名全香,新築之,同主殿助尚舍息,丹波守重定賜松平称号」とある。明応2(1493)年, ...
中村新田 とは(豊橋百科事典より)
なかむらしんでん 中村新田は,宝永4(1707)年,豊川(とよがわ)河口に篠束(しのづか)村(宝飯(ほい)郡小坂井町篠束)の七郎右衛門が開発した。渥美郡中村新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分7石余とある。明治11(1878)年,青竹新田・茅野新田・富久 ...
中野田新田 とは(豊橋百科事典より)
なかのだしんでん 中野田新田は,元禄15(1702)年,豊川(とよがわ)左岸に平野村庄屋庄兵衛・萩平村庄屋仁平・中山村庄屋作太夫により開発された。八名郡中野田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分55石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば ...
中西与右衛門 とは(豊橋百科事典より)
なかにし・よえもん(?~1690) 中西与右衛門は,吉田(豊橋)宿本陣清須屋4代主人であったが,寛文3(1663)年豊川(とよがわ)河口右岸の川崎村(豊橋市川崎町)地先に新田開発を発願した。寛文7(1667)年5月検地がすみ,清須新田46町9反余,高462石余とされた。内7反歩 ...
内藤弥太夫 とは(豊橋百科事典より)
ないとう・やだゆう(生没年不詳) 大村(豊橋市大村町)の庄屋であったといわれる内藤弥太夫は,元禄4(1691)年,豊川(とよがわ)が氾濫したので,橋尾(宝飯郡一宮町橋尾)にあった灌漑(かんがい)用水の井堰(いぜき)が取水不能となり,草ヶ部(宝飯郡一宮町豊津)に移設 ...
豊橋平野 とは(豊橋百科事典より)
とよはしへいや 豊橋平野は,愛知県の東部に位置し,西側の三河山系と東側の弓張山系に囲まれ,三河湾に向けて南西方向にラッパ状に広がる平野で,東三河平野ともいう。平野の面積はおよそ375k㎡である。平野の中央部には中央構造線に沿って豊川(とよがわ)が流れ,豊川の両 ...
豊橋藩 とは(豊橋百科事典より)
とよはしはん 吉田(豊橋)藩は,明治2(1869)年6月,政府の指示により豊橋藩と改称した。吉田藩は,他に伊予吉田藩(愛媛県北宇和郡吉田町)があったからといわれている。 政府は明治2(1869)年6月の版籍奉還を機に,紛らわしい同名の藩は1藩を残して他を改称すること ...
豊橋段丘面 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだんきゅうめん 豊橋段丘面は,豊川(とよがわ)左岸の下流部に,更新世(およそ170万年前~1万年前)に形成された礫(れき)層と砂層からなる複数の段丘面のうち,最も下位にある段丘面をいう。この下位段丘上に永正2(1505)年,今橋(豊橋)城が築かれて城下町が形 ...
「豊橋市水道誌」(豊橋市役所編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししすいどうし 「豊橋市水道誌」(豊橋市役所昭和5年)は,豊橋市水道の昭和2(1927)年7月18日の起工式挙行から同5(30)年3月2日の竣工式・通水式に至る間の豊橋市水道築造の記録である。 豊橋市水道は,西下条(豊橋市下条西町)の豊川(とよがわ)本流の伏流水を ...
豊橋公園の自然 とは(豊橋百科事典より)
とよはしこうえんのしぜん 豊橋公園(豊橋市今橋町 21.64ha)は,吉田(豊橋)城跡地の公園で,昭和24(1949)年に開設された。この中には,美術博物館,テニスコート,陸上競技場,野球場,茶室などの施設がある。 歴史がある場所だけに太い木が多く,クスノキ386本,ク ...
豊橋河川事務所(豊橋市中野町平西(たいらにし)) とは(豊橋百科事典より)
とよはしかせんじむしょ 国土交通省中部地方整備局豊橋河川事務所(豊橋市中野町平西)は,敷地面積5868㎡,鉄筋コンクリート造り3階建て,延べ床面積1769㎡で,豊川(とよがわ)水系と矢作川水系の二河川の治水・利水・河川環境の保全を策定し,河川の整備をすすめることを ...
豊橋(豊川(とよがわ)) とは(豊橋百科事典より)
とよばし 豊橋は,白鳥豊橋線(愛知県道496号・東海道)が豊川(とよがわ)を横切るところに架けられた橋である。豊橋市船町と同下地町間を結ぶ。「豊橋」は,地名の「とよはし」と区別するために「とよばし」と呼称されることもある。 天正18(1590)年,吉田大橋として架 ...
豊川流域下水道 とは(豊橋百科事典より)
とよがわりゅういきげすいどう 豊川流域下水道は,昭和46(1971)年,愛知県が豊川流域の8市町とともに,各河川と三河湾の水質汚濁を低減し,公共用水域の水質保全を図る下水道計画を策定して,同55(80)年から供用を開始した。区域は豊橋市北部・新城市・豊川市・蒲郡市 ...
豊川用水総合事業部(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
とよがわようすいそうごうじぎょうぶ 豊川用水事業は,昭和2(1927)年4月,農林省の大規模農業水利調査として計画され,同24(49)年9月,国営豊川農業水利事業所が開設され,宇連(うれ)ダムの建設工事に着手したことに始まる。昭和33(1958)年12月,宇連ダムが完成し, ...
「豊川用水史」(豊川用水研究会・豊川用水史編纂委員会編) とは(豊橋百科事典より)
とよがわようすいし 「豊川用水史」(水資源開発公団中部支社・愛知県 昭和50年)は,水資源開発公団と愛知県によって企画され,愛知県と水資源開発公団の委託を受けた豊川用水研究会と豊川用水史編纂委員会によって執筆・編集された。本文編と資料編の2巻で構成されてい ...
豊川用水 とは(豊橋百科事典より)
とよがわようすい 豊川用水は,宇連(うれ)ダム(南設楽郡鳳来町川合)と大島ダム(同鳳来町名号)から放流された水を宇連川で約16㎞流下させ,大野頭首工(同鳳来町大野)で30立方メートル/s(最大)を取水し,東部幹線水路で渥美半島の先端まで約76㎞,西部幹線で蒲郡まで ...
「豊川放水路工事誌」(建設省中部地方建設局豊橋工事事務所) とは(豊橋百科事典より)
とよがわほうすいろこうじし 「豊川放水路工事誌」(建設省中部地方建設局豊橋工事事務所 昭和42年)は,昭和13(1938)年の工事着工から昭和40(1965)年の豊川放水路完成までの足かけ28年間の放水路づくりの歴史をまとめたものである。 本書は上下2巻からなり,上巻は ...
豊川放水路 とは(豊橋百科事典より)
とよがわほうすいろ 豊川放水路は,豊川下流部の豊橋市・豊川市・宝飯郡小坂井町・同一宮町の流域1万haを洪水から守るため,豊川市行明町(豊川河口から11.6㎞地点)から豊川河口部の豊橋市前芝町まで,直線的に(延長6.6㎞・川幅120m~160m)開鑿した放水路であり,第2次 ...
豊川橋 とは(豊橋百科事典より)
とよがわばし 有料道路豊川橋は,国道23号豊橋バイパスが豊川・豊川放水路を横切るところに架けられた橋である。前芝IC(豊橋市前芝町)から豊川橋南IC(豊橋市神野新田町)を結ぶ。日本道路公団が建設し,昭和58(1983)年2月17日に供用開始した。豊川橋(橋長649m)を中 ...
豊川の渡船 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのとせん 平安時代の承和2(835)年には,飽海河の渡船を従来の2隻から4隻に増加させる太政官符が出された。これを「飽海の渡し」という。西側は宝飯郡小坂井町平井辺り(柏木の浜)と考えられ,東側ははっきりせず豊橋市の飽海・関屋・城海津・坂津などが推定され ...
豊川の鉄橋 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのてっきょう 豊川に明治21(1888)年,東海道線(単線)の鉄橋が架設され,同41(08)年,複線化(下り線架設)した。この間,豊川鉄道(飯田線下り線)の架設は,明治30(1897)年,資本金40万円を50万円に増資して,下地町起点を花田村(豊橋市花田町西宿)豊橋 ...
豊川の蛇行 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのだこう 蛇行は,川が連続してS字状にうねって流れる状態をいい,曲流またはメアンダーともいう。豊川は新城(しんしろ)市で三河山間部から豊橋平野に出ると蛇行し,沖積平野をつくり,三河湾に注いでいる。豊橋市内では,上流から豊橋市賀茂町,下条西町,牛川町 ...
豊川の舟運 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのしゅううん 江戸期の豊川の舟運は,八名郡乗本村(鳳来町)と対岸の設楽郡長篠村(鳳来町)から,鵜飼舟によって吉田(豊橋)・下地・前芝に貨物を送ったものである。鵜飼舟は,長さ7間半・幅4尺5寸で,舟人2人ずつ乗組み,11里を9~10時間かかって下った。 宝 ...
豊川の自然 とは(豊橋百科事典より)
とよがわのしぜん 豊川は,段戸(だんど)山(北設楽(したら)郡設楽町)に源を発し,途中で宇連(うれ)川と合流し,豊橋市内を貫流して三河湾に注ぐ。源流域は標高約1000mのブナ林,下流域はシイを中心とする照葉樹林で,川岸には河畔林としてケヤキ・エノキ・ムクノキの林が ...
豊川鉄道 とは(豊橋百科事典より)
とよかわてつどう 明治29(1896)年1月24日,豊川鉄道株式会社に私設鉄道敷設免許状が下付され,同29(96)年2月1日,豊川鉄道株式会社創立,取締役社長横山孫一郎(1846~1911),同29(96)年,起点を下地から花田村に変更(資本金を50万円とする),豊橋停車場(明治32 ...
豊川水位観測所 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 水位観測所(豊橋市湊町) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のbl ...
豊川浄化センター(豊橋市西浜町) とは(豊橋百科事典より)
とよがわじょうかせんたー 豊川浄化センターは,昭和47(1972)年度,愛知県が豊川流域下水道事業として着工し,豊橋市・豊川市・蒲郡市・新城市・音羽町・御津町・小坂井町・一宮町の4市4町の処理区域の汚水を処理する終末処理場で,同55(80)年度に供用開始した。計画概 ...
豊川 とは(豊橋百科事典より)
とよがわ 豊川は,北設楽郡設楽町の段戸(だんど)山(標高1152m)を源流とする豊川(別名寒狭川)と,明神山(標高1016m)を源流とする宇連(うれ)川(豊川,別名三輪川・板敷川)が南設楽郡鳳来町長篠地先で合流し,中央構造線に沿って南西に流れ,新城(しんしろ)市で山地を ...
土倉新田 とは(豊橋百科事典より)
とくらしんでん 土倉新田は,高須新田とともに,寛文5(1665)年,豊川(とよがわ)河口左岸に摂津池田(大阪府池田市)の土倉五郎兵衛および吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛,上伝馬町の真弓佐平,豊川村(豊川市)の高須十太夫が開発したものである。しかし,延 ...
東名高速道路 とは(豊橋百科事典より)
とうめいこうそくどうろ 東名高速道路は,正式路線名を「第一東海自動車道」という。昭和44(1969)年5月26日に東京インターチェンジと小牧インターチェンジ間(346.7㎞)が全通した。日本道路公団管理の全国の高速道路のうちで最も通行量が多い。また,東京インターチェン ...
当古橋(豊川) とは(豊橋百科事典より)
とうごばし 当古橋は,国道362号(姫街道)が豊川(とよがわ)を横切るところに架けられた橋である。豊橋市石巻本町と豊川市当古町を結ぶ。昭和9(1934)年3月26日,3連アーチ式鉄橋を含む橋長304.7m・幅員5.5mが完成し,「当古の渡し」は廃止された。昭和61(1986)年10月24 ...
当古の渡し とは(豊橋百科事典より)
とうごのわたし 当古の渡しは,国道362号(姫街道)の豊橋市石巻本町と豊川市当古町を結ぶ豊川(とよがわ)の渡船である。始まりは明らかでないが,慶長5(1600)年に,創設したとされる。文化13(1816)年に,当古村と中山家の共同経営となり,安政6(1859)年に,当古村営 ...
天伯原 とは(豊橋百科事典より)
てんぱくばら 天伯原は,豊橋市の南部,梅田川以南から太平洋岸まで広がる洪積台地で,渥美半島の基部にあたる。標高は太平洋岸が80m~60mと高く,北西の三河湾に向かって低くなり,標高20mほどになる。天伯原の形成は,梅田川以北の高師原よりも古く,原型面はほとんど侵 ...
天王の渡し とは(豊橋百科事典より)
てんのうのわたし 天王(下条)の渡しは,豊橋市下条西町(天王村)と豊川市院之子町を結ぶ豊川(とよがわ)の渡船である。天文9(1540)年に創設したとされる。しかし,昭和53(1978)年4月に中条豊橋線(愛知県道394号)の下条橋の開通により廃止された。 - - 豊橋市議 ...
天王の弁天様(民話) とは(豊橋百科事典より)
てんのうのべんてんさま 昔々,年老いた農夫が山仕事を終え,たくさんの薪(たきぎ)を背負って帰る途中,豊川(とよがわ)の鐘ヶ淵のほとりで一休みした。疲れが出て居眠りをしていると,天女のように美しい娘が現れ,「私を片葉の葦(あし)が生い茂り,清らかな水がわき出てい ...
積石塚古墳(豊橋市石巻平野町) とは(豊橋百科事典より)
つみいしづかこふん 積石塚古墳は,土ではなく石を主に使用して墳丘を築いた古墳である。中国東北部および朝鮮半島に存在することから,日本国内にあるものは渡来系氏族の墓制とする説が有力である。東三河地域では豊橋市北部の吉祥山塊を中心に積石塚古墳が分布しており, ...
佃煮 とは(豊橋百科事典より)
つくだに 佃煮は,江戸開府と同時期,江戸佃島で作られはじめた。保存性と滋味から参勤交代を通じ全国に広まり,三河へも伝わった。三河湾と遠州灘に抱かれた地形から海の幸に恵まれ,採れるあさり・はぜなどの魚介類を保存のために佃煮に仕上げた。水飴も豊橋で生産された ...
貯木場 とは(豊橋百科事典より)
ちょぼくじょう 豊川(とよがわ)の河口付近の豊橋市下地町・北島町の川辺には,各所に材木を係留する貯木場が造られ,製材業が発達した。江戸時代や明治期,南北設楽(したら)・八名(やな)郡地域からの木材の搬出は,豊川を利用して盛んに行われていた。豊川の上流の寒狭川や ...
中央構造線 とは(豊橋百科事典より)
ちゅうおうこうぞうせん 中央構造線は,メディアンラインともいい,日本列島がフォッサマグナ(大地溝帯)によって区分された西日本の地質を,内帯(日本海側・領家変成帯)と外帯(太平洋側・三波川変成帯)とに2分している古い断層線で,1億年ぐらい前に活動したと考えら ...
畜産農業協同組合 とは(豊橋百科事典より)
ちくさんのうぎょうきょうどうくみあい 豊橋市畜産農業協同組合は,第2次世界大戦後の昭和23(1948)年12月25日に,青木宅治を初代組合長として,豊橋市中八町官有地に設立された。当時は豚や牛・馬・乳牛・山羊などの畜種があり,それぞれの代表が集まった寄り合い世帯で ...
高須新田 とは(豊橋百科事典より)
たかすしんでん 高須新田および土倉(とくら)新田は,ともに,寛文5(1665)年,豊川(とよがわ)河口左岸に吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛,吉田上伝馬町の真弓佐平,豊川村(豊川市)の高須十太夫,吉田住土倉五郎兵衛によって開発された。しかし,延宝8(1680) ...
「大地は語る」(池田芳雄) とは(豊橋百科事典より)
だいちはかたる 「大地は語る」(池田芳雄 昭和60年)は,池田芳雄が昭和37(1962)年の「新城市誌」に掲載した地学関係著作・論文50編と,愛知県農地林務部自然保護課の自然環境保全に関する調査報告書を加えた合計100編以上の著作の中から,東三河にしぼって「東愛知新 ...