とよがわ 豊川は,北設楽郡設楽町の段戸(だんど)山(標高1152m)を源流とする豊川(別名寒狭川)と,明神山(標高1016m)を源流とする宇連(うれ)川(豊川,別名三輪川・板敷川)が南設楽郡鳳来町長篠地先で合流し,中央構造線に沿って南西に流れ,新城(しんしろ)市で山地を ...
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動物保護管理センター(豊橋市神野新田町京ノ割) とは(豊橋百科事典より)
どうぶつほごかんりせんたー 愛知県動物保護管理センター東三河支所は,平成5(1993)年4月,豊橋市神野新田町京ノ割に開所した。対象になる動物は犬と猫で,担当区域は東三河一円(豊橋市を除く―豊橋は豊橋市保健所が担当)で,業務の内容は動物愛護思想の普及啓発,動物 ...
ツバメチドリ とは(豊橋百科事典より)
つばめちどり ツバメチドリ(ツバメチドリ科)は,全長約27㎝の鳥で,分類上はチドリ目に所属しているが,チドリの仲間とは区別されて,独立した1科1種である。姿も,飛び方も餌(えさ)の捕り方なども,ツバメによく似ている。 繁殖地は,中国東部,東南アジア,台湾で,日 ...
都築伊七 とは(豊橋百科事典より)
つづき・いしち(1888~1974) 都築伊七は,明治21(1888)年1月10日,幡豆郡一色村(一色町)で生まれた。家族が毛利新田(神野新田)に入植したので,牟呂尋常高等小学校を卒業し,愛知県第四中学校に入学した。中学校4年生で,舞鶴の海軍機関学校に進んだ。艦船勤務の後 ...
中部瓦斯(豊橋市白河町) とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶがす 中部ガス株式会社は,明治42(1909)年10月に設立された豊橋瓦斯株式会社の創業に始まる。昭和18(1943)年9月,豊橋瓦斯と浜松瓦斯株式会社が合併して中部瓦斯株式会社が発足した。昭和20(1945)年6月の豊橋空襲で豊橋・浜松ともに被害を受けてガスの供給を ...
中部(豊橋市神野新田町トノ割) とは(豊橋百科事典より)
ちゅうぶ 株式会社中部は,昭和38(1963)年に中部瓦斯(ガス)株式会社の全額出資で,豊橋市白河町に中部設備工業株式会社の名称で,空調と給排水設備を事業分野として設立された。昭和39(1964)年に,社名を株式会社中部と変更した。平成2(1990)年には本社社屋を豊橋市 ...
タイリクバラタナゴ とは(豊橋百科事典より)
たいりくばらたなご タイリクバラタナゴ(コイ科)は,タナゴの仲間で,二枚貝の体内を借りて子育てをする珍しい習性をもった淡水魚である。以前は,河川やため池などでドブガイやカラスガイなどのイシガイ科の二枚貝が,ヤリタナゴなどの繁殖を手助けていた。ところが,昭 ...
ダイムラー・クライスラー日本(豊橋市神野西町一丁目) とは(豊橋百科事典より)
だいむらー・くらいすらーにっぽん 昭和61(1986)年,自動車輸入業務を行う組織として,東京にメルセデス・ベンツ日本株式会社が設立された。平成3(1991)年,豊橋市神野西町に豊橋事業所・新車整備センター(敷地面積10万7181㎡)を開設した。平成4(1992)年には販売後 ...
大法寺(豊橋市神野新田町中洲) とは(豊橋百科事典より)
だいほうじ 栄寿山大法寺(日蓮宗)の創立は,昭和23(1948)年で,開山は一妙院日雄上人である。昭和6(1931)年開基石橋日定法尼は,豊橋に身延山久遠寺の直末たる法華経の道場がないことを憂いて,一庵を興した。本尊は,円満具足曼荼羅である。昭和23(1948)年,公称 ...
台風13号 とは(豊橋百科事典より)
たいふう13ごう 台風13号は,昭和28(1953)年9月25日,熊野灘から志摩半島を横切り,18時30分過ぎ知多半島野間付近に再上陸し,岡崎・田口を経て21時には長野県の諏訪湖方面に去った。台風経路近くや,南側の渥美湾沿岸,渥美半島では暴風雨と高潮による災害をうけた。 ...
「大地は語る」(池田芳雄) とは(豊橋百科事典より)
だいちはかたる 「大地は語る」(池田芳雄 昭和60年)は,池田芳雄が昭和37(1962)年の「新城市誌」に掲載した地学関係著作・論文50編と,愛知県農地林務部自然保護課の自然環境保全に関する調査報告書を加えた合計100編以上の著作の中から,東三河にしぼって「東愛知新 ...
体育協会 とは(豊橋百科事典より)
たいいくきょうかい 財団法人豊橋市体育協会は,昭和4(1929)年4月陸上競技,野球,水泳,卓球の関係者が中心となって創立された。記念事業として豊橋蒲郡間駅伝競走大会を挙行した。昭和6(1931)年3月に理事会を開催,名称を豊橋市体育協会と改め会長に丸茂藤平市長を選 ...
総合体育館(豊橋市神野新田町メノ割) とは(豊橋百科事典より)
そうごうたいいくかん 豊橋市総合体育館は,市制80周年記念事業として豊橋市神野新田町メノ割に,平成元(1989)年5月2日に開館した。鉄骨・鉄筋コンクリート2階建て(一部3階建て)延べ床面積1万2348㎡である。外観は臨海部に位置する施設にふさわしく,カモメがはばたく ...
総合スポーツ公園(豊橋市神野新田町メノ割) とは(豊橋百科事典より)
そうごうすぽーつこうえん 豊橋総合スポーツ公園は,平成11(1999)年に,豊橋市神野新田町地内に,臨海スポーツ公園として,面積15万4000㎡で開設された。中心施設の総合体育館は,平成元(1989)年に完成した。 平成12(2000)年には,スケートボードやマウンテンバイク ...
税関(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
ぜいかん 豊橋税関支署は,昭和47(1972)年5月,豊橋市大崎町に名古屋税関豊橋出張所として設置された。昭和56(1981)年,豊橋市神野ふ頭町にある豊橋港湾合同庁舎内に移る。平成11(1999)年,豊橋税関支署と改称する。 豊橋税関支署は,管轄区域の三河港における税務 ...
生花市場(豊橋市神野新田町ニノ割) とは(豊橋百科事典より)
せいかしじょう 豊橋生花市場組合(任意組織)が,昭和8(1933)年8月,名古屋,浜松に先がけて設立された。昭和11(1936)年になると,豊橋市新川町市南に豊橋生花市場(申合せ組合)が発足した。 昭和20(1945)年9月,戦災により中止していたが,再発足し立ち会いを始 ...
鈴与(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
すずよ 鈴与株式会社は,本社を静岡市清水区に置き,港湾運送事業を中心に石炭の販売や練炭の製造,石油の販売などを行ってきた。大正8(1919)年に豊橋市湊町に支店を開設し,石炭販売の営業を始めた。昭和5(1930)年に練炭の製造を始め,同9(34)年には石油販売も始め ...
スズガモ とは(豊橋百科事典より)
すずがも スズガモ(カモ科)は,海ガモの一種で,翼長は20㎝ほどあり,漢字で書くと「鈴鴨」である。水面からいっせいに飛び立つとき,羽音が鈴を振るような音に聞こえるところから,スズガモと名づけられたという。オスは,頭は緑色光沢のある黒で,胸と尾も黒い。背は白 ...
水産試験場 とは(豊橋百科事典より)
すいさんしけんじょう 国立水産試験場豊橋養魚場は,大正9(1920)年4月,渥美水産組合と愛知県水産試験場が共同で,渥美郡牟呂吉田村北島(豊橋市北島町)に設立した淡水養殖研究所が起源である。大正10(1921)年,水産講習所として国営移管が内定,国立豊橋養魚試験場を ...
水産業 とは(豊橋百科事典より)
すいさんぎょう 江戸時代,豊橋の海辺に面していた村々は農業のかたわら漁業を営んでいた。三河湾の漁業は,明治時代より,のり・あさりの養殖が盛んに行われてきたが,昭和30年代末期からの臨海工業地帯の造成に伴い,平成11(1999)年4月には,終わった。 外海の漁業は ...
神野野球場(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
じんのやきゅうじょう 神野野球場は,三河港港湾環境整備の一環として,昭和57(1982)年愛知県によって建設された。平成6(1994)年の第49回国民体育大会(わかしゃち国体)の軟式野球の会場としても使用された。総面積は2万4264㎡,グラウンド面積は1万7203㎡で,軟式野 ...
神野埠頭(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
じんのふとう 神野埠頭は,昭和47(1972)年5月に国際貿易港として開港した豊橋港(三河港)の神野地区で,神野東埠頭(豊橋市神野ふ頭町)・神野西埠頭(豊橋市神野西町)からなり,内貿用から外貿用の公共岸壁が総延長3540m整備され,700から3万重量トン級までの船舶が接 ...
神野新田資料館(豊橋市牟呂町会所前) とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでんしりょうかん 神野新田資料館は,神野新田開拓100周年を記念して,平成5(1993)年6月に,豊橋市牟呂町会所前に開館した。鉄筋コンクリート2階建て,延べ面積306.9㎡である。1階は「地」をテーマにして,記念碑の拓本や新田の年表,立体地図模型,稲作に使 ...
「神野新田開拓百年記念誌」(神野新田土地改良区) とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでんかいたくひゃくねんきねんし 「神野新田開拓百年記念誌」(神野新田土地改良区 平成5年)は,神野新田の開拓に着手してから百年を記念して刊行された。神野新田については,「神野新田紀事」(神野金之助編),「神野新田誌」(神野三郎),「神野新田」( ...
「神野新田」(酒井正三郎・小出保治) とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでん 「神野新田」(神野新田土地農業協同組合・神野新田土地株式会社 昭和27年)は,神野新田開拓60周年・農地解放6周年記念に酒井正三郎が主班となり小出保治が執筆したものである。 昭和26(1951)年4月15日に新田開発60周年記念事業として神野新田史の編集 ...
神野新田 とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでん 牟呂村地先の富久縞(ふくしま)新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州(よりす)は,干拓の適地として早くから注目されていた。明治18(1885)年,愛知県令として赴任した勝間田稔は,旧山口藩老で第百十国立銀行(赤間関銀行)頭取の毛利祥久に,この干拓事 ...
神野小学校(廃止) とは(豊橋百科事典より)
じんのしょうがっこう 私立神野尋常小学校は,明治29(1896)年,神野金之助が私財を投じて牟呂村神野新田ソノ割に設置した学校である。明治35(1902)年,牟呂尋常高等小学校に併合・廃止された。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうご ...
女性会館(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
じょせいかいかん 豊橋市女性会館は,平成6(1994)年5月,豊橋市神野ふ頭町に開館した豊橋市の複合施設「ライフポートとよはし」内に開設された。女性の学習活動の促進,グループの育成,ネットワークの支援や男女共同参画の推進を図る拠点施設である。床面積は2087㎡であ ...
市民プール(豊橋市今橋町) とは(豊橋百科事典より)
しみんぷーる 豊橋市民プールは,豊橋市今橋町の豊橋公園内に,昭和40(1965)年7月25日に開設された。面積1万3661㎡の敷地内に,公認飛び込みプール・公認50m競泳プール(9コース)・25mプール・幼児用プールがあり,スタンドの収容人員は2700である。 プール開きには ...
自動車学校 とは(豊橋百科事典より)
じどうしゃがっこう 豊橋市内には,豊橋総合自動車学校・ユタカ自動車学校・ダイイチ自動車学校・港技研自動車教習所・タカラテクニカルスクールの5つの公安委員会指定学校がある。 総合自動車学校は,昭和31(1956)年8月,愛知県交通安全協会豊橋支部の運営で豊橋市向山 ...
視聴覚教育センター(豊橋市大岩町火打坂) とは(豊橋百科事典より)
しちょうかくきょういくせんたー 豊橋市視聴覚教育センターは,昭和49(1974)年10月開館し,同55(80)年隣接して地下資源館が建設された。校外理科学習や視聴覚教育,また,理科教育関係の教員研修のための施設として建設された。敷地面積1万3291㎡,建物延べ面積3293.2 ...
市制施行から100年 とは(豊橋百科事典より)
しせいしこうから100ねん 豊橋が全国62番目の市として市制を施行したのは明治39(1906)年8月1日である。明治21(1888)年,東海道線大府~浜松間の開通に伴い,豊橋駅が開業した。明治30(1897)年,豊川鉄道(飯田線),大正14(1925)年,渥美電鉄(豊橋鉄道渥美線), ...
座談倶楽部 とは(豊橋百科事典より)
ざだんくらぶ 豊橋座談倶楽部は,昭和10(1935)年12月3日,豊橋商工会議所で,大林功,神野太郎ら8人の委員によって発案・結成された。「自由に意見を交換し,あわせて相互の親睦を図る。これを通じて会員各自の将来の飛躍を期し,ひいては当市の発展に資する」ことを目標 ...
コンテナターミナル(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
こんてなたーみなる 三河港豊橋コンテナターミナルは,平成10(1998)年神野ふ頭7号岸壁で供用を開始した。ガントリークレーン1基を備え,平成16(2004)年貨物取り扱い量実績は2万8553TEU(20フィートコンテナ1本)である。平成17(2005)年7月,週1便の日中航路も ...
コンサートホール(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
こんさーとほーる コンサートホールおよび中ホールは,平成6(1994)年5月,豊橋市神野ふ頭町に開館した豊橋市の複合施設「ライフポートとよはし」に開設された。クラシック音楽を中心に,音響に配慮した本格的な音楽ホールである。入り口は,正面の1~2階に位置している ...
五郷神社(豊橋市神野(じんの)新田(しんでん)町セノ割) とは(豊橋百科事典より)
ごごうじんじゃ 五郷神社は,明治28(1895)年神野新田五号地区の鎮守として豊受大神を勧請して創祀された。昭和31(1956)年社殿を造営した。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科 ...
国道23号バイパス とは(豊橋百科事典より)
こくどう23ごうばいぱす 国道23号豊橋バイパスは,名豊道路の一部として計画され,豊川市為当町(愛知県道31号)から伊古部南栄線(愛知県道407号)の豊橋市野依町までの延長17.6㎞の自動車道路である。豊橋市野依町からの国道23号豊橋東バイパス(野依IC~国道1号間)に ...
港湾合同庁舎(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
こうわんごうどうちょうしゃ 豊橋港湾合同庁舎は,昭和56(1981)年3月,神野ふ頭町に開設し,平成元(1989)年に,増築された鉄筋2階建ての庁舎で,名古屋入国管理局豊橋港出張所・名古屋税関豊橋税関支署・名古屋植物防疫所清水支所豊橋出張所・名古屋検疫所豊橋出張所が ...
港湾技能研修センター(豊橋市神野新田町シノ割) とは(豊橋百科事典より)
こうわんぎのうけんしゅうせんたー 港湾技能研修センターは,港湾技能安定協会が昭和63(1988)年,豊橋市神野新田町シノ割に設置した港湾運送事業者を対象とする研修センターである。豊橋地区職業訓練センターを併設して,職業能力開発向上訓練研修などを行っている。なお ...
耕地整理 とは(豊橋百科事典より)
こうちせいり 神野新田二回地区約179haは,神野新田耕地整理の第1期事業として干拓による耕地整理を明治41(1908)年10月20日から始め,大正元(1912)年6月に完工した。引き続き第2期工事として,大正5(1816)年12月から神野新田耕地整理西部施行地区320haの整理が開始 ...
倉掛武雄 とは(豊橋百科事典より)
くらかけ・たけお(1912~88) 倉掛武雄は,明治45(1912)年5月23日,東京深川木場の材木問屋,倉掛房一の2男に生まれた。昭和10(1935)年農林省水産講習所を卒業後,朝鮮黄海道・全羅南道などの水産試験場技手となった。第2次世界大戦後帰国し,三洋水産株式会社(神奈 ...
草間村 とは(豊橋百科事典より)
くさまむら 「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の磯部(以曾倍)は太平洋岸の伊古部とする説もあるが,現在の磯辺地区とされる。江戸期には草間村であったが,やがて,向草間村・松井新田・上ノ原新田が分立した。草間村内には,王ヶ崎・駒形・一色・大山などの枝郷があった。渥 ...
漁業補償 とは(豊橋百科事典より)
ぎょぎょうほしょう 三河湾の神野新田地先の六条潟海域は,貝・藻・魚類の宝庫で昔から湾岸の人々の暮らしを支えてきた。しかし,昭和38(1963)年の東三河工業整備特別地域の指定と,同39(64)年4月三河港が重要港湾に指定されたことにより,愛知県の総合的な地域開発計 ...
教育会館(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
きょういくかいかん 豊橋市教育会館は,平成6(1994)年5月,豊橋市神野ふ頭町の複合施設「ライフポートとよはし」内に開設した。教職員の研修をはじめ,視聴覚教材の制作・情報教育や・様々な教育相談への対応など,今日の学校教育活動に応える機能を備えた総合施設である ...
環境センター とは(豊橋百科事典より)
かんきょうせんたー 豊橋市環境センターは,全市のごみを3ブロック(東部・南部・西部)に分け収集する中継施設を含む基地である。 東部環境センターは,昭和62(1987)年,従前より豊橋市飯村(いむれ)町高山にあった高山清掃センターを名称変更し,敷地面積1万2171㎡・ ...
河合陸郎 とは(豊橋百科事典より)
かわい・ろくろう(1902~76) 河合陸郎は,明治35(1902)年3月1日,渥美郡豊橋町(豊橋市飽海(あくみ)町)に白井又蔵の6男として生まれた。6歳の時,豊橋市札木町の叔母河合しげの養嗣子となった。大正5(1916)年八町高等小学校を卒業し,大阪で働き,YMCA夜間英語学校 ...
かもめ通り とは(豊橋百科事典より)
かもめどおり かもめ通りは,豊橋市が平成2(1990)年に道路愛称として公募して認定した道路である。豊橋市小向町の国道23号(蒲郡街道)から豊橋市道(小向町・神野新田町19号)を通り,神野新田町の豊橋市総合体育館までの延長3.5㎞の道路である。なお,かもめ通りには, ...
「神野太郎伝」(中部瓦斯株式会社編) とは(豊橋百科事典より)
かみのたろうでん 「神野太郎伝」(中部瓦斯株式会社 昭和61年)は,中部瓦斯株式会社編纂(監修入交好脩)で刊行された。 神野太郎(1903~83)の生涯では,中部ガスの社業を戦前・戦後と発展させ,豊橋商工会議所会頭に就任するなど地域産業発展に貢献したことが述べら ...
「神野三郎伝」(神野三郎翁伝記編纂委員会) とは(豊橋百科事典より)
かみのさぶろうでん 「神野三郎伝」(中部瓦斯株式会社 昭和40年)は,神野三郎翁伝記編纂委員会(主幹入交(いりまじり)好脩(よしなが))によって刊行された。「神野三郎伝」は,単なる頌徳碑的な記述を避け,広い社会経済史的な背景のもとに神野三郎(1875~1961)の業績 ...
「神野金之助重行」(堀田璋左右) とは(豊橋百科事典より)
かみのきんのすけしげゆき 「神野金之助重行」(神野金之助翁伝記編纂会 昭和15年)は,昭和4(1929)年高橋克親・生駒重彦・近藤徳治郎により主唱され武市南風を編集長として神野金之助翁伝記編纂会が初稿段階まで仕上げたものを,堀田璋左右が神野家の意を受け補筆脱稿 ...