わがまちはねい 「わが町羽根井」(豊橋市立羽根井小学校 昭和62年)は,移り変わる羽根井校区の歴史を豊橋市立羽根井小学校の職員が執筆したものである。 内容は,校区の自然や歴史などを資料や聞き取りをもとにまとめたものであり,明治以降の羽根井の町づくりと変遷に ...
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六条潟 とは(豊橋百科事典より)
ろくじょうがた 六条潟は,三河湾沿岸部の豊川(とよがわ)を中心として,南は柳生川・梅田川,北は江川・佐奈川・音羽川の6河川が流入する河口一帯に広がる干潟・浅海域の総称で,6河川が流入することから吉田(豊橋)藩士(氏名不詳)が名付けたとされている。六条潟は,海 ...
柳生川沿線土地区画整理 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわえんせんとちくかくせいり 柳生川沿線土地区画整理事業は,豊橋市花田町・牟呂町の80haにわたって,昭和33(1958)年度から同47(72)年度に施行された。昭和47(1972)年7月11日,豊橋市羽根井西町・東脇一~四丁目,市場一丁目の町名が設定された。 - - ...
柳生川運河 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわうんが 柳生川の改修は,柳生川耕地整理組合連合会により,昭和8(1933)年1月に着手,同11(36)年2月工事が完了した。その中で東海道線柳生川鉄橋下から牟呂港まで4500mを,幅27m,干潮水面下1.8mとし,柳生川鉄橋下に360m四方の船溜を設け,牟呂港から200t ...
柳生川 とは(豊橋百科事典より)
やぎゅうがわ 柳生川は,柳生川水系の基幹をなす二級河川で,かつては薫瀬(くんぜ)川といわれた。豊橋市の東部,豊橋市岩崎町[手洗]から流れ出す内山川が宮前池・利兵池を経て,葦毛(いもう)湿原(豊橋市岩崎町)から流れ出す地蔵川(延長560m)を合流し,影岩池・上庄池 ...
森田新田 とは(豊橋百科事典より)
もりたしんでん 森田新田は,元禄11(1698)年,柳生川左岸に開発された新田である。高39石余で高足(たかし)村から分立した。渥美郡森田新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分70石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数6,人数38であった ...
牟呂村 とは(豊橋百科事典より)
むろむら 牟呂村は,柳生川河口の渥美湾に面している。牟呂の地名は熊野の「牟婁(むろ)」に由来するとされる。渥美郡牟呂村の村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に1844石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に上牟呂村豊橋藩領分610石余,中牟呂村豊橋藩領分474石余・坂 ...
牟呂王塚古墳(豊橋市牟呂市場町) とは(豊橋百科事典より)
むろおおづかこふん 牟呂王塚古墳は,柳生川の河口を臨む段丘の南端に立地する。古くからその存在が知られ,明治12(1879)年に村人が主体部を発掘した際に金銅装製品が多数出土し,東京帝室博物館(東京国立博物館)に収蔵された。また昭和63(1988)から平成9(97)年の ...
向山大池(豊橋市向山町・向山大池町) とは(豊橋百科事典より)
むかいやまおおいけ 向山大池は,古く承応3(1654)年に吉田(豊橋)藩主が築造させた溜池である。かつては,面積10町2反4畝29歩(約10ha)もあった文字通りの大きな池であった。この水は,吉田城下の下水道に引き入れられ,吉田城の外堀にも供給され,吉田方の水田まで流 ...
三河港務所(豊橋市神野ふ頭町) とは(豊橋百科事典より)
みかわこうむしょ 愛知県三河港務所は,昭和26(1951)年7月,渥美郡伊良湖岬村に伊良湖港修築工事事務所として発足した。昭和28(1953)年,伊良湖港湾工事事務所と改称,同35(60)年,事務所を渥美郡赤羽根町へ移転した。昭和37(1962)年5月,西浦・蒲郡・豊橋・田原の ...
松島新田 とは(豊橋百科事典より)
まつしましんでん 松島新田は,寛文7(1667)年,柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助,馬見塚村孫平次によって開発された新田である。渥美郡松島新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。「吉田藩領戸数調」(安政5年 ...
豊橋段丘面 とは(豊橋百科事典より)
とよはしだんきゅうめん 豊橋段丘面は,豊川(とよがわ)左岸の下流部に,更新世(およそ170万年前~1万年前)に形成された礫(れき)層と砂層からなる複数の段丘面のうち,最も下位にある段丘面をいう。この下位段丘上に永正2(1505)年,今橋(豊橋)城が築かれて城下町が形 ...
豊橋飼料(豊橋市明海町) とは(豊橋百科事典より)
とよはししりょう 豊橋飼料株式会社は,昭和6(1931)年平野賢治が豊橋市船町に豊橋飼料合名会社を創立し,ト(丸ト)の商標を使ったことに始まる。昭和13(1938)年豊橋市牟呂町扇田の柳生川沿岸に本社・工場(敷地面積7万8000㎡)を移転し,養鶏用を主とする家畜用配合飼 ...
「豊橋市下水道誌」(豊橋市役所編) とは(豊橋百科事典より)
とよはししげすいどうし 「豊橋市下水道誌」(豊橋市役所 昭和11年)は,豊橋市下水道の昭和6(1931)年11月1日の起工式から同11(36)年3月25日の竣工式に至る豊橋市下水道築造の記録である。 豊橋市下水道は合流式下水道で,豊橋市街を八町・松山・船町・東田・花田・ ...
富田新田 とは(豊橋百科事典より)
とみたしんでん 富田新田は,寛文(1661~73)ごろ柳生川左岸に開発された。高は「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分102石余とあり,「吉田領戸数調」(安政5年)によれば,家数5,人数33であった。明治11(1878)年,牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・向 ...
高師原 とは(豊橋百科事典より)
たかしばら 高師原は,豊橋市街地南部の柳生川と梅田川の間に広がる東西約6㎞・南北約4㎞の洪積層の台地である。「たかし」の地名は,平安時代の「倭名類聚鈔」にある「渥美郡高芦(たかし)」によるものとされる。それは,古来から歌にも詠まれてきた。高師原は,南接する天 ...
神野新田 とは(豊橋百科事典より)
じんのしんでん 牟呂村地先の富久縞(ふくしま)新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州(よりす)は,干拓の適地として早くから注目されていた。明治18(1885)年,愛知県令として赴任した勝間田稔は,旧山口藩老で第百十国立銀行(赤間関銀行)頭取の毛利祥久に,この干拓事 ...
正林寺(豊橋市南松山町) とは(豊橋百科事典より)
しょうりんじ(まつやま) 飽海山(橋北山)正林寺(曹洞宗)の創立は,弘長2(1262)年平重盛の養女栄耀尼(えいように)により創建された臨済宗寺院である。千体骨地蔵尊を本尊とする。正林寺の縁起(えんぎ)には「栄耀尼は,筑紫の地頭原田種猶に嫁し,一子花若丸を得た。 ...
境橋(境川・朝倉川・柳生川) とは(豊橋百科事典より)
さかいばし 境橋は,東海道(旧国道1号)で,現在の湖西東細谷線(愛知・静岡県道173号)が境川(三河国と遠江国の国境)を横切るところに架けられた橋である。古くから,境川・境橋は文書に登場し,「東海道名所記」に「境橋,これ三川・遠江のさかひ橋也,橋のしたハ小 ...
小松新田 とは(豊橋百科事典より)
こまつしんでん 小松新田は,万治2(1659)年,柳生川左岸に開発された新田で,高39石余で高足(たかし)村から分立した。渥美郡小松新田の高は,明治2(1869)年,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分39石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数15,人 ...
運河 とは(豊橋百科事典より)
⇒ 柳生川運河 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://naga ...
上ノ原新田 とは(豊橋百科事典より)
うえのはらしんでん 上ノ原新田は,延宝7(1679)年以前,柳生川左岸を牟呂村によって開発された新田である。渥美郡上ノ原新田は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分117石余とある。八幡社があったが,明治24(1891)年,小浜村神明社の境内に遷座した。明治11( ...
磯辺王塚古墳(豊橋市王ヶ崎町王郷) とは(豊橋百科事典より)
いそべおうづかこふん 磯辺王塚古墳は,三河湾沿岸の柳生川河口部に発達した砂の堆積地の付け根付近に位置している。羽田野敬雄(はだのたかお)が残した記録により,古くは幕末の弘化3(1846)年に付近の村人が発掘したことがうかがえる。その後,大正11(1922)年から平成9 ...