愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

カテゴリ:14-民話

わんかせいわ  二川の町並みを出て東へしばらく行くと,立岩(たていわ)(豊橋市中原町)がある。その前に畳3畳敷きほどの岩があり,椀貸せ岩とか膳(ぜん)立て岩といわれている。村で祝いごとやお祭りがあって,お膳を多く必要なときは,この岩にお願いして借りていた。岩に ...

ろうこたん  いつのころか,吉田指笠(さしかさ)町(豊橋市新本町)に相撲(すまい)という珍しい名字の眼医者が住んでいた。ある晩遅く,一人の僧侶が来て「喜見寺の者だが,誤まって眼を突き,苦しいので何か良い薬をもらいたい」という。相撲は診察し,薬を与えたが,傷は相 ...

りゅうのうろこ  ある夜,美しい娘が全久院(豊橋市東郷町)を訪ねてきた。娘はひどく悩んでいる様子だったので,和尚は寺に招きいれ,お経を唱えてやった。すると,娘は夜ごと,寺に通ってくるようになり,長いお経を覚えてしまうころには,顔つきもずいぶん明るくなった。 ...

りゅうとうのまつ  昔,岩屋観音堂(豊橋市大岩町)の裏に松の大木があった。枝は四方に伸び,天にも届くかと思われるほどであった。いつのころからか,この大木に,夕方になると灯(あか)りがつくのが遠くから見えた。ところが近寄ってみると,灯りは見えないのであった。こ ...

よりともゆかりのながらのひのき  鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~99)は,京の都へ上る時,鎌倉街道を豊橋市雲谷(うのや)町の普門寺から船形山を越え,豊橋市岩崎町・多米(ため)町・牛川町乗小路・石巻本町和田へと駒を進めた。豊橋市石巻本町長楽の集落にひときわ大きな桧 ...

やまのせいくらべ  神代のこと,石巻山と本宮山が,自分の方が背が高いといい争い,二つの山が背比べをすることになった。山の神様が,石巻山と本宮山に樋(とい)をかけ,水を流したところ,水は勢いよく石巻山の方に流れ落ち,石巻山は背比べに負けてしまった。その時,流れ ...

もんがくはぎとり  昔,平家が隆盛であったころのこと,岩屋山(豊橋市岩屋町)に高足の庄司という山賊の頭目が手下をつれて住みつき,東海道を往来する旅人を襲っては金品を奪っていた。 治承4(1180)年7月のある日,源頼朝の命を受け,平家討伐の院宣を受けに伊豆から京 ...

もんがくしょうにんいのりのいずみ  普門寺(豊橋市雲谷町)に「文覚上人祈りの泉」という小さな池がある。ある年のこと,日照りの日が続き,村全体が水枯れ状態となった。そのころ,旅から戻った文覚上人は,水不足に難渋する村のために,夜半から岩の上に座り,一心不乱に ...

むろむらのゆらい  和銅元(708)年春3月,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の海岸に打ち寄せられた1艘(そう)の船があった。5人の男女が乗っていた。都から追われた開元親王とその乳母人(めのと),官女,従者2人であった。村人は一行を助け上げ,新しい御殿を建てて住まわせ, ...

むろはちまんのかね  昔むかし,牟呂に一人の漁師が住んでいた。ある日,船を漕ぎ出して釣りに出ていた。天気も良く,潮も悪くないのに釣れないので何度も場所を変えた。ここで駄目なら帰ろうと糸を垂らしたら,近くで烏の群がムロハチマン,ムロハチマンと鳴いている。よく ...

みちしるべいなり  明和(1764~1772)のころ,吉田(豊橋)藩主松平伊豆守が二川(豊橋市二川町)の山中で濃霧にまかれ,道に迷ってしまった。途方にくれた伊豆守が神に念じると,忽然と一方の霧が晴れ,前方に稲荷社が現れた。その方角に歩いていくと無事,街道に出ること ...

みがわりじぞう  嘉永7(1854)年11月4日,吉田(豊橋)を大地震が襲った時,神宮寺(豊橋市魚町)には手習いや遊びに集まった子どもたちが,80人ほどいた。地震で揺れ出した時,院主良伝法師の指示で,子どもたちは境内へ避難した。寺子屋にいた9歳のいさという魚屋十一屋 ...

⇒ 羽衣の松(民話) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http: ...

ほうじゅどうのこもりじぞう  今から100年ほど前のこと,大知波(おおちば)(湖西市)に住む百姓が,子が生まれるので吉田(豊橋)へ買いものに来た。遅くなったので多米(ため)峠の下の宝珠堂(豊橋市多米東町)に泊めてもらった。草鞋(わらじ)を脱ぎ,お地蔵様に手を合わせ ...

ひょうりゅうこうぼう  高塚の海岸(豊橋市高塚町名繰)に,一体の弘法大師坐像が流れついたのは大正12(1923)年4月15日のことだった。像は浜回りの村人によって発見され,警察署に届けられた。5か月たっても所有者が現れなかったため,村では放置するのももったいないこと ...

ひとすじのなわ  宝暦4(1754)年,豊川(とよがわ)の大橋の架け替え工事にあたって,江戸下谷の大工茂平・善右衛門の2人は,工事の難しさに困って,岩屋山の観音堂に7日間参篭(さんろう)した。満願の日,豊川に一筋の縄が流れて行く夢を見た。縄は流れながら弓形になって, ...

はたごいけ  大蚊里(おがさと)(豊橋市大村町)の農家に嫁入りした気立てのいい女がいた。ところが,姑は嫁の立居振るまいに目を光らせ,ことあるごとに口出しをしては,嫁いじめをしていた。ある時,嫁が機を織っていると,織り方が遅いとつらくあたり,意地悪く罵(ののし) ...

はごろものまつ  行明(ぎょうめい)(豊川市行明町)は,かつては星野の里と称された。昔,若者がこの付近の水辺を通りかかると芳香が漂ってきた。見上げると松の木に羽衣がかかっており,天女が水浴びをしていた。若者は羽衣を隠し家に持ち帰ってきた。その夜,美しい女が若 ...

はくじゃのまつ  昔,八町(豊橋市八町通)の武家屋敷で働いていた娘が主人に切り殺されてしまった。娘は「七代たたってやる」といい残して息絶えた。やがて,屋敷にあった松の大木に白蛇が住みつくようになり,主人は若死にした。その後,白蛇は茶坊主に姿を変え,この松に ...

はくじゃのいけ  昔,牟呂の外神(とがみ)(豊橋市牟呂外神町)に,きれいなわき水をたたえた大きな池があった。池の脇には,長者の立派な屋敷が建っていた。長者は池のほとりに立ち,村内を眺めては,「この池の水が田畑を潤し,作物が青々と育つ」と喜んでいた。ある年,一 ...

ぬすまれたかんのんさま  昔,牛川(豊橋市牛川町)に信心が深い男が住んでいた。男は,朝倉川の向こう岸にある太蓮寺(豊橋市東田町西脇)の三十三観音に日参を重ねていた。ある日,男は観音様を自分の家に持ち帰れば,毎日,寺に通わなくてすむと考え,観音様を背負って歩 ...

にのうまのえま  小松原(豊橋市小松原町)に,貧乏な男が住んでいた。男は毎日,野良仕事に励んだが,たくさんの子どもたちを養うのがやっとだった。そこで,男は家宝の品を畑仕事のできる馬と交換したが,この馬が暴れ馬で,つないでおいた綱を食いちぎり,畑や辺り一面を ...

とくごうちょうじゃ  6世紀のころ,滝蔵人正時清(たきくらんどのしょうとききよ)という人が多米(ため)(豊橋市多米町)の東に住んでいて,「滝山長者」と名のっていた。時清は河内の国に行き,聖徳太子の説法を聞き,太子から徳合長者の名を賜(たまわ)り,太子の作った大日 ...

てんぱくいなり  天白稲荷(豊橋市大手町)には,大きな椋(むく)の木が4本植えられていた。ある日,その木に登って遊んでいた子どもが誤って落ちてしまったが,怪我一つしなかった。両親はそのお礼に天白稲荷に詣でると,木の下に狐の尻尾が落ちていた。子どもが落ちたとき ...

てんのうのべんてんさま  昔々,年老いた農夫が山仕事を終え,たくさんの薪(たきぎ)を背負って帰る途中,豊川(とよがわ)の鐘ヶ淵のほとりで一休みした。疲れが出て居眠りをしていると,天女のように美しい娘が現れ,「私を片葉の葦(あし)が生い茂り,清らかな水がわき出てい ...

てんぐさまにまもられたがく  大岩寺(だいがんじ)(豊橋市大岩町)に,かつて号を月舟(げっしゅう)という僧がいて,書をよくした。ある夜,僧の夢に秋葉山の天狗が現われて,「和尚の腕を貸して欲しい」と頼んだ。僧は頼みを聞いてやった。翌朝目を覚ますと,腕はちゃんと動 ...

たんもいけとさわたりいけ  それは神代の昔,まだ大岩村(豊橋市大岩町)ができる前のことだった。ある日,西の方から,土をいっぱい入れた大きなモッコを天秤棒(てんびんぼう)で担(にな)った大男が,この地にやってきた。ずいぶん遠くからやって来たとみえ,汗まみれの疲れ ...

たかいのもちつき  高井城(豊橋市石巻本町城之内)は,当時南朝に属していた高井主膳正の居城といわれている。ある年,暮れの12月28日のこと,高井の城は北朝軍の激しい襲撃を受け,苦戦を強いられていた。12月28日といえば,この村では「二八餅」といって,正月用の餅をつ ...

だいだらぼっちのたんぼ  神代の昔,ある日の昼下がりのことだった。小島(豊橋市小島町)に,海の方から突然大男が現われ,「わしはだいだらぼっちという者だ。村の者に危害を加えたりしない。わしは腹がへっとる。何か食わせてくれ」と大声で叫んでいた。村長(むらおさ)は ...

だいだらぼっちのあしあと  石巻山の山頂へ向かう途中,だいだらぼっちの足跡とか,山姥(やまんば)の足跡と呼ばれているまん中が凹(へこ)んだ大きな岩がある。大昔,だいだらぼっちが石巻山に登る途中で小便がしたくなり,石巻山に片足を踏ん張り,もう片足を本宮山にかけて ...

だいこんながし  江戸時代,吉田(豊橋)の宿に真田麻紐(さなだあさひも)づくりで生計をたてる男が住んでいた。男はひどい喘息(ぜんそく)に悩まされていた。ある年の12月12日の夜,真田幸村公が夢枕に立ち,「天水と地水が交わり,その川が真北に流れ,橋が二か所あって海に ...

だいげんほうしときつね  昔,大玄法師という坊さんが高林庵(豊橋市西高師町)にいた。ある時,大玄が南の浜に行くのに,野依(のより)(豊橋市野依町)を過ぎ,天伯原(豊橋市天伯町)に出ると,狐がたくさん遊んでいるのに出くわした。大玄は突然,持っていた法螺貝(ほら ...

せんたいこつじぞう  筑前芦屋(福岡県遠賀郡芦屋)で源平の戦いが繰り広げられた。戦いは源氏の勝利に終わり,平家の大将・原田次郎種猶は捕らえられ,鎌倉に送られ土牢(つちろう)に閉じ込められていた。原田種猶の妻・栄燿尼は,逃げのびた先で男の子,花若丸を産んだ。13 ...

しょうやげんきち  庄屋源吉は,宝暦2(1752)年に高足(たかし)村(豊橋市高師町)に生まれ,18歳の時,庄屋となった。このごろ吉田(豊橋)領の百姓は,年貢の重圧に苦しめられていた。源吉が20歳のころ,領内各村の庄屋が連名で減租を願い出たが,役人はそれを許さなかっ ...

しょうべんじぞう  昔,信仰心に篤い庄屋がいた。ある日,庄屋が長楽(ながら)(豊橋市石巻本町[長楽])の地蔵堂の前を通りかかると数人の子どもたちが遊んでいた。子どもたちはお地蔵さんに土で作った団子を供えようとしているところだったが,水分が足りず丸めることがで ...

じゅうさんぼんづかひわ  今川義元(1519~60)は,桶狭間で織田信長の急襲にあって戦死した。今川氏真(いまがわうじざね)(1538~1614)が後を継いだが,勢力は衰え,それまで味方であった松平元康(徳川家康)は織田信長側につき,それに同調するかのように東三河の武士た ...

しあわせじぞう  豊橋市中心地より西南に位置する東大清水町の見晴らしのよい一角に,自然石を彫って作った高さ50㎝ほどの地蔵がある。長年雨風にさらされていたためか,顔もはっきりしないほど風化している。この地蔵が,しあわせ地蔵で,昭和53(1978)年にこの地に安置さ ...

ざとうがけ  二川中学校の東(豊橋市二川町道賢田)辺りは,梅田川に流れ込む落合川に沿って300mほど崖になっているところがある。この横を通る細い道が,昔は二川と細谷(豊橋市細谷町)をつなぐ大切な道であった。樹木や笹が生い茂り,昼でも暗く,狐や狸が住みついており ...

さかいのこうしんさま  賀茂村の坂井(豊橋市賀茂町坂井)に,一体の庚申さまが流れ着いた。庚申さまは大雨の中をいずこから流れて来たのかも,どこのものかも分からなかった。村人たちは庚申さまを洗い清め,流れ着いた所にお祀りした。でも庚申さまは,雨のたびに水びたし ...

こまどめのさくら  建久元(1190)年のこと,源頼朝(1147~99)が京の都にのぼる時,途中米山大明神(豊橋市岩崎町)に参詣,武運長久を祈願し,軍馬の鞍を奉納したという。それ以来,鞍掛神社(豊橋市岩崎町森下)と名を改めたと伝えられている。また,源頼朝は鞍掛神社の ...

こまどめのいし  源頼朝(1147~99)は逆戈(さかほこ)神社(豊橋市浜道町)を崇敬(すうけい)していた。文治4(1188)年に神領を寄進した時,お墨付きに八遅戈(やちほこ)大明神と記した。神社は後に,石巻神社の分霊を祀り,逆戈神社と改名したという。源頼朝が鎌倉より京へ ...

ごひんさま  三河湾沿岸などに夜出没する火の玉のことを,昔の人々は御賓様とか狗賓(ぐひん)様と呼んで恐れていた。ある日,大津(豊橋市老津町)の海を漁師がモク(藻草のこと,老津や杉山の人々は,昭和の20年代まで海に出てモクを採り,牛糞(ぎゅうふん)や藁(わら)を混ぜ ...

こはまのぼっちのいけ  神代のころ,小浜(豊橋市小浜町)に雲をつくような大男が現われた。男は「だいだらぽっち」と名乗り,諸国で田畑の作り方を教えていた。だいだらぼっちは,この村に田がないことを知り,「米を作らないのか」と尋ねた。村長は,「米を作りたいが,こ ...

けいせいづか  杉山村(豊橋市杉山町)の地先海面の新田開拓,堤塘(ていとう)工事を尾張藩士竹腰三信が行っていた。最終の澪止(みおど)めに失敗を重ね,竹腰三信も途方にくれていた。そのころ,この地に身分の賤(いや)しい中年の美女・傾城がいて,「澪の保たざる所,人の柱 ...

くびきりじぞう  上伝馬(かみでんま)(豊橋市上伝馬町)に藤三郎という男が女房と二人の子どもと暮らしていた。ある時,火事により上の子と全家財を失ってしまった。その後,残った子供も病死した。女房は小池村(豊橋市小池町)の塩満観音(しおみちかんのん)(潮音寺)に子 ...

きんのにわとり  不動院(豊橋市瓦町通一丁目)が仁連木(にれんぎ)(豊橋市仁連木町)にあったころ,まばゆく輝く金の鶏の彫刻があり寺の宝物とされていた。心配性の和尚は,「大切な金の鶏が盗まれたらどうしよう」と考えた。和尚があまり心配するので,見かねた小坊主がど ...

きんじのしいのき  飯村(いむれ)の茶屋(豊橋市飯村町茶屋)に金次という長者の屋敷があった。その庭には一本の大きな椎の木があり,毎年たくさんの実をつけた。金次は,村人たちには実を拾わせず一人占めしてきた。ある日,旅の僧が通りかかり,実を分けてほしいと頼んだが ...

ぎょらんかんのん  赤沢(豊橋市東赤沢町)の海に夜な夜なおかしな光が浮かび,魚が獲れず,村人たちは困り果てていた。漁師で信仰深い久作は,光るものを取り除けば,平和な村が戻るのではないかと光に向かって網を投げた。すると金色に輝く観音様が網で引き上げられた。左 ...

かんのんじのかんのんさま  元和8(1622)年の大津波の時,梅の木に本尊の観音様がお留まりになられているのを村人が見つけた。住職永宿和尚が上屋敷の了源寺を現在地に移転改築し,寺号も観音寺(豊橋市梅薮町)と改め,村名も梅の木にちなみ梅薮(うめやぶ)とした。その後 ...

かんぜさこんだゆう  能楽師・観世左近太夫は,美しい妓女(ぎじょ)を妻にして京都に住んでいたが,嫉妬深い妻に愛想を尽かし,元亀2(1571)年,浜松に夜逃げした。天正元(1573)年,吉田(豊橋)の猿屋小路(豊橋市新吉町付近)に移り,謡曲の師匠として生計を立てていた ...

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