愛知豊橋市長坂なおと のblog

ブログ総アクセス数600万超。最年少・無所属で2015年の豊橋市議会議員選挙に新人トップ当選(全体8位)、2019年現職トップで再選(同2位)。2023年歴代最多得票にて3選。地元・豊橋のこと、地域のこと、まちなかのこと、市役所・市議会のこと、ニュースを見て思ったこと、いつも考えていること、そして、地元・豊橋のことなどを書いていきます。~住んでほの国、失敗ええじゃないか~

カテゴリ:20-遺跡・城

わちがやじょう  月ヶ谷城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。城址(じょうし) は正宗寺の南西裏山にあたり,遺構として曲輪(くるわ),堀,土塁,井戸,土止め用のためと思われる石積みが確認できる。縄張りは,南東方面に出曲輪を築くなど本坂峠方面か ...

わだじょう  和田城は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「古代和田民部住ス,後渡部久左衛門,永禄年中,同息図書助・浄,元亀元卒,同息山城守茂」とある。和田氏については明らかではないが,渡辺氏は「渡辺氏御系譜」によれば代々摂津国に住み,楠木正成とともに千早城 ...

よねやま9ごうよう  米山9号窯は,豊橋市岩崎町米山に所在する9世紀後半ごろの平安時代の灰釉(かいゆう)陶器を生産した窯跡である。発掘調査されたことはないが,採集された遺物から二川古窯址(こようし)群の中では最も古い時期の窯跡の一つと考えられる。出土遺物は灰釉陶 ...

よしだじょうこうぼうしもじかっせん  吉田城(豊橋)攻防・下地合戦は,牧野信成が吉田城主の時,西三河において松平清康が勢力を拡大して東三河を侵攻した享禄2(1529)年5月28日のことである。松平清康は,享禄2(1529)年5月27日,兵を発し赤坂(宝飯郡音羽町)から小坂 ...

よしだじょう  吉田(豊橋)城は,現在の豊橋公園とその周辺をはじめ,東は飽海(あくみ)町から旭町,南は曲尺手(かねんて)町から呉服町,西は関屋町に達する広大な城であった。その縄張りは豊川(とよがわ)を背に,本丸を基点に二の丸,三の丸を前面,側面に配したもので,半 ...

よしださんめいすい  吉田三名水は,山田宗へん(1627~1708)が愛用した「栄川の泉」「御坊の井」「呉竹の井」をいう。「栄川の泉」は,羽田(はだ)八幡宮(豊橋市花田町斉藤)の北側にあった。山本貞晨(ていしん)の「三河国吉田名蹤綜録」(文化3年)には「昔日,松平豊洲 ...

むろじょう  牟呂城は,西ノ郡(蒲郡市)方面で勢力を誇った鵜殿氏の城とされる。「三河国二葉松」(元文5年)に,「牟呂村古屋鋪,鷲津村本光寺棟札,牟呂城主鵜殿兵庫頭,牟呂兵庫頭正茂」とある。また,土塁上に建つ石碑が示すように「鵜殿兵庫之城」ともいう。「三河国 ...

むろおおづかこふん  牟呂王塚古墳は,柳生川の河口を臨む段丘の南端に立地する。古くからその存在が知られ,明治12(1879)年に村人が主体部を発掘した際に金銅装製品が多数出土し,東京帝室博物館(東京国立博物館)に収蔵された。また昭和63(1988)から平成9(97)年の ...

みょうけんこふん  妙見古墳は,紙田川の河口に向かって伸びる段丘の端部に立地する。妙見古墳は前方後円墳で,全長49m,後円部の径27m,前方部の長さ22mである。墳丘は2段築成されており,葺石(ふきいし)や周溝は現状では確認されていない。前方部は後世に墓地として掘り込 ...

みつやまこふん  三ツ山古墳は,豊橋市牟呂町坂津の段丘の端に位置する。三ツ山古墳は全長38mの前方後円墳で,前方部が発達した形状である。墳丘には葺石(ふきいし)は見られず,2段に築成されている。下段のテラス面には埴輪(はにわ)列があり,さらに墳丘の周囲には前方後円 ...

ほんごういせき  本郷遺跡は,豊橋市大岩町本郷に所在する古代から中世にかけての遺跡である。遺跡は梅田川と権茂川に挟まれた舌状台地の先端部近くに営まれた集落遺跡であり,古代の灰釉(かいゆう)陶器などを生産した二川古窯址(こようし)群の中心地区である苗畑支群に近接 ...

ほりのうちむらふるやしき  下条堀内村古屋敷は,位置が特定できない城の一つである。豊橋市下条東町の霊江寺付近が城址(じょうし)と考えられているが,付近に小堀,木戸口の地名を残すのみで遺構は何もなく,規模も不明である。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天正元年 ...

ふもんじきゅうがらんし  普門寺旧伽藍址は,普門寺背後の山中に所在するかつての境内址であり,総面積33万㎡にわたって展開する大山林寺院址である。旧伽藍址は元堂址(もとどうあと),元々堂址(もともとどうあと)と称する2つの大規模な堂址を中心に,100か所を超える平場( ...

ふながたさんじょう  船形山城は,三河と遠江(とおとうみ)の境に位置し,築城時期は明らかではないが,今川氏が三河方面への侵攻の拠点とするために築いたものとされる。 城址(じょうし)は普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)の裏山にあたり,現在は東海自然歩道のルートとなっ ...

ふたがわこようしぐん  二川古窯址群は,松明峠(たいまつとうげ)南西麓を中心に分布する9~11世紀ごろの灰釉(かいゆう)陶器と緑釉(りょくゆう)陶器を生産した古窯址群である。尾張の猿投窯(さなげよう)からの技術導入によって,生産がはじめられたものであり,北は豊橋市多 ...

ひらいいなりやまかいづか  平井稲荷山貝塚は,明治33(1900)年,宝飯郡小坂井町平井の大林意備(もとよし)によって小坂井町平井と豊橋市前芝町の境界地で発掘された遺跡である。縄文時代晩期の土器のほかに石鏃・石斧・石剣・骨角器・土偶が発掘された。大正元(1912)年, ...

はだむらこじょう  羽田村古城は,百度(ずんど)屋敷とも呼ばれ,石原百度兵衛の居城とされる。「三河国二葉松」(元文5年)に,「石原百度兵衛,酒井左衛門尉家人」とある。百度兵衛は酒井忠次の臣で,先代は東三河十七騎の一人,石原次郎兵衛である。 現在遺構はないが, ...

はしらいせき  橋良遺跡は,豊橋市柱三番町を中心とした標高3~5mほどの低位な段丘上に,東西600m,南北700mほどの範囲で広がる弥生時代中期を主体とした集落遺跡である。古くは橋良貝塚と呼ばれたこともあるが,弥生時代やそれ以前の貝塚は確認されていない。 遺跡は,豊 ...

はじかみごうじょう  薑郷城は,一説に二連木(にれんぎ)城家老屋敷と伝えられ,御園橋の南東,二連木城から朝倉川沿いに200mほど西北に位置する。城址(じょうし)は河川改修や宅地化により,わずかに土塁の痕跡を残すのみとなったが,昭和初期の地図には50m×50m程度の方形 ...

はぎひらさんじょう  萩平山城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。西郷氏の本城の五本松城(豊橋市石巻中山町)は西を除く三方を連なる山に囲まれているが,開口部である西方にも山が一つあった。この山に築かれたのが萩平山城である。 遺構としては山 ...

にれんぎじょう  二連木城(古文書などには「二連木」の表記が多い)は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。「三河国二葉松」(元文5年)に,「天文十年戸田丹波入道宣光,法名全香,新築之,同主殿助尚舍息,丹波守重定賜松平称号」とある。明応2(1493)年, ...

にほんまつこふんぐん  二本松古墳群は,石巻北部の独立丘陵上に分布する各古墳群の総称である。農業基盤整備事業に先がけて昭和44(1969)年から同47(72)年に発掘調査が行われた。調査古墳数は17基におよび,豊橋市内だけではなく,群集墳の調査事例が乏しい三河地域にお ...

にしやまいせき  西山遺跡は,梅田川の支流である西ノ川によって形成された沖積地を望む標高30mの段丘上に所在した集落遺跡である。愛知県企業庁による土地造成事業に伴い,昭和58(1983)から同60(85)年に豊橋市遺跡調査会が発掘調査を行った。調査では45棟の竪穴住居址( ...

にしのいしばいやきがまあと  西野石灰焼窯跡は,豊橋市石巻本町西野に所在した板倉家所有の石灰生産用の窯である。創業は江戸時代末の板倉文右衛門(英光)と伝わる。平成13(2001)年に豊橋市教育委員会が発掘調査を行い,江戸時代末から明治33(1900)年まで順次操業を続 ...

にしなんだいいせき  西南代遺跡は,豊橋市杉山町西南代にあった縄文時代早期から中世までに断続的に営まれた遺跡である。遺跡は紙田川と蜆川に挟まれ,渥美湾に向かって伸びる台地の先端に位置している。標高は23mで,台地下の水田面とは約17mの比高差がある。平成10(1998 ...

にしがわじょう  西川城は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。数ある西郷氏の城砦群の中にあって西川城は最も西,五本松城方面から連なる丘陵先端部に位置している。「三河国二葉松」(元文5年)に,「西郷西川村古城,天文年中西郷孫三郎種員,永禄年中 ...

なむれじょう  波入江城は,田原方面で勢力を誇った戸田氏の城の一つである。築城時期・規模などは不明である。祥雲寺(豊橋市老津町)が城址(じょうし)に当たるが,遺構はない。 現在は城址の北西方面は埋め立てられ,工業団地となっているが,往時は三河湾に面した城であ ...

なみのうえふるやしき  浪ノ上古屋敷は,浪之上戸田氏の城館である。浪之上戸田氏は,天文16(1547)年田原の戸田氏滅亡後,今川氏に取り立てられ仁連木(にれんぎ)に入った実光,重光(東三河17騎の一人戸田惣兵衛)と続く系統をいう。城址(じょうし)は特定できないが正円寺 ...

なかぜこやかた  中瀬古館は,豊橋南部方面,主に梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城の一つである。天文・弘治年間(1532~58)に今川家臣畔田三郎兵衛尉が居住していたという。規模については明らかではない。城址(じょうし)は東雲寺(豊橋市野依町)とその周辺で ...

なえはた5ごうよう  苗畑5号窯は,豊橋総合動植物公園内にある9世紀後半~10世紀前半ごろの平安時代の緑釉(りょくゆう)陶器(とうき)・灰釉(かいゆう)陶器(とうき)を焼いた古代の窯跡である。ボート池南東側の斜面にあり,発掘調査の後に埋め戻されて現地で保存されている。 ...

どうやまとりで  堂山砦は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。医(くすし)神社(豊橋市石巻中山町)の北東に,三段の削平地が確認できるが,これは大永2(1522)年に焼失した太陽寺の跡である。「八名郡誌」によれば,堂山城はこの太陽寺跡とされるが定か ...

⇒ 伊奈の銅鐸 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog http://naga ...

てりやまじょう  照山城は,一説に豊川方面で勢力を誇った牧野氏の創建と伝えられるが,その沿革は定かではない。「三河国二葉松」(元文5年)に,「賀茂村照山古城,城主不知,山本勘助此所出生,天正十八年ヨリ池田家臣戸倉四郎兵衛同村住」とある。 城址(じょうし)は加 ...

つみいしづかこふん  積石塚古墳は,土ではなく石を主に使用して墳丘を築いた古墳である。中国東北部および朝鮮半島に存在することから,日本国内にあるものは渡来系氏族の墓制とする説が有力である。東三河地域では豊橋市北部の吉祥山塊を中心に積石塚古墳が分布しており, ...

だんじょうとりで  弾正砦は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。位置を特定できないが,豊橋市石巻中山町の採石場付近にあったとされる。遺構はなく,規模なども不明である。 - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうござい ...

ためじょう  多米城は,「三河国古今城塁地理誌」によれば,多米元益の城である。元益城ともいう。城址(じょうし)は豊橋市民俗資料収蔵室から豊橋大知波線(多米街道)を東へ300mほど進んだ辺りである。遺構など城址を示す形跡はなく,規模,時期も不明である。 - - 豊 ...

たかなわじょう  高縄城は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「大津村古城,号城山,彦坂小刑部,戸田全衛門,同三郎左右衛門」とある。戸田宗光が大津(現在の老津)に入ったのが文明7(1475)年であることから,この城もそのころ築かれたと考えられる。 城址(じょうし)は ...

たかいじょう  高井城は,「三河国二葉松」(元文5年)に,「高井村古城,高井主膳」とある。国道362号(姫街道)小倉橋交差点の南の小高い丘状になっている所が城址(じょうし)である。畑地の端に高まりが確認でき,これが土塁の痕跡である可能性がある。広島市立中央図書館 ...

たかいいせき  高井遺跡は,豊橋市石巻本町投野の辺りに広がる弥生時代中期から,中世まで続く大きな遺跡である。特に弥生時代は大きな環濠(かんごう)に囲まれた豊橋市内でも有数の大規模な集落であった。 発掘調査が行われ,環濠や方形周溝墓,竪穴住居跡などが発見された ...

だいぜんこよう  大膳古窯は,豊橋市植田町の東西を谷にはさまれて伸びる段丘の北東向き斜面に築かれた,中世陶器・山茶碗(やまぢゃわん)の窯址群(かまあとぐん)である。最低でも8基の窯址があったと推定される。工場用地造成のための採土工事に先立ち,1・2号窯の2基の窯体 ...

⇒ 羽田村古城(豊橋市花田町百北・築地) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長 ...

すわひがしとりで  諏訪東砦は,豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五本松」で「タイトコロ」と記された場所の遺構と思われる曲輪(くるわ),堀切,土塁が確認できる。その規模は50m×20m程度 ...

⇒ 市場城(豊橋市嵩山(すせ)町荒木) - - 豊橋市議の長坂です。 豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。 このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。 苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂な ...

すぎやまじょう  杉山城は,位置が特定できない城の一つである。「杉山村誌」などから宝林寺(豊橋市杉山町)とその付近が城址(じょうし)で,規模は約55m×45m程度とされている。また,殿村,城山などの地名を今に残している。築城時期は不明である。「三河国二葉松」(元 ...

しらいしいせき  白石遺跡は,豊橋市石巻本町櫃割にある弥生時代前期の遺跡である。遺跡は石巻山の麓を流れる神田川と三輪川とが合流する辺りの河岸段丘の先端にある。白石遺跡では村を囲む環濠(かんごう)と呼ばれる溝から,「遠賀川式土器(おんががわしきどき)」がまとまっ ...

しもじやかた  下地館は,城谷(しろがやつ)古城とも呼ばれ,「三河国二葉松」(元文5年)には「下地村城谷古屋鋪,石田浄玄」とある。城址(じょうし)は豊橋市下地老人福祉センター辺りとされるが遺構もなく,規模,時期なども不明である。城主の石田浄玄とは,東三河17騎の ...

しもごいやかた  下五井館は,現在の下五井公民館辺りが城址(じょうし)にあたる。城主として中島氏,星野氏の名が見られるが築城時期などは明らかではない。遺構もなく,規模も明らかではないが公民館の周囲にはかつての堀の跡であろうか,道が回っており,ここが城跡である ...

しばやむらふるやしき  芝屋村古屋敷は,位置が特定できない城の一つである。豊橋市大村町地ノ神付近が城址(じょうし)と考えられているが,その西方には高ノ城という地名も残っている。「三河国二葉松」(元文5年)は,「芝屋村古屋鋪,山県三郎兵衛,暫忍居ト云」とある。 ...

さんがくじいん  豊橋市と湖西市の境界である弓張(ゆみはり)山地の山中には,古代から中世にかけて存続した寺院址が存在する。これらは平安時代の真言宗・天台宗などの密教系寺院であり,いずれも後世に廃絶したか,あるいは山麓の別地点に境内を移転させてしまったものが多 ...

さきょうでんじょう  左京殿城は,「石巻村史」によれば大永3(1523)年ごろには小枝左京進が在城したとあるが,この小枝氏については明らかではない。 城址(じょうし)は三河と遠江を結ぶ本坂峠下の要衝で,新本坂トンネルバイパスに接する嵩山校区市民館の東の小山である ...

↑このページのトップヘ