豊橋市議の長坂です。
センター国語は、杉並区議以下です。

さて、朝起きたら脳天を直撃するニュースが。
このニュースを見て、ぼくはとても悲しかった。

そして、自分が「受験教」の信者であることを痛感しました。



先日、ある高校生がこんなことを言っていました。
「東大の推薦を受けようと思ってます。一般では受からないと思うので」

この話を聞いたとき、内心少しカチンとしました。
「今は推薦があるから、ぜひ受けてみればいい。けれども、ぼくは推薦やAO自体はあまりよく思っていない。採点がより主観的で、不正につながる余地が生まれやすいから。」

ぼくは今、この高校生に謝りたい。
「ごめん、ペーパーであっても不正はあった」と。



このニュースを聞いたとき、自分の信じていたもののひとつがガラガラと崩れるような感覚がありました。

社会人になってから、正確にはその前、就職活動なども通じて、学校の勉強・受験勉強ほど、がんばりが比例的に結果につながり、そして成績や合格などの評価に直接的に結びつくものはない、と。

良い言い方をすれば、これほど成功体験を積みやすいものも中々ない。だから学校の勉強は大切だし、児童生徒には、がんばれる環境をいかにつくれるかが、本当に重要だと感じていました。

その大前提には、試験・採点には「不正」がない、ということに気付かされました。



日本ボクシング連盟に対する告発について、テレビでボクシング関係者らしいどなたかがこんなことを言っていました。

「もっとも重大なのは不正判定(疑惑)。選手の中には、試合の結果が進学や今後の人生を大きく左右する。審判に対する信頼がなければ、選手はがんばれない」

「奈良判定」とも呼ばれ、奈良県選手に有利な判定がされる不正判定(疑惑)です。



不正(≒差別)を受ける、ということは、その人を「がんばれなくする」「がんばる気力を失わせる」

それを直感的に感じたから、不正入試のニュースを聞いたとき、悲しい・申し訳ない気持ちになったのだと、気付かされました。

そしてこれが差別が許されない、根源的な理由のひとつなのでしょう。

差別は人から気力を奪う。

では。