豊橋市議の長坂です。
2020年は祝日が移動するようです。

さて、もうすぐ海の日です。
海の日の豊橋と言えば「みなとフェスティバル」が恒例です。
https://www.aichi-now.jp/spots/detail/1347/

昨年の海の日、ふとこんなことを。

「同じ三河湾の両隣、蒲郡と田原には海水浴場があるのに、どうして豊橋にはないんだろう」

そこで、図書館(レファレンスサービス)に聞いてみました。
いただいた回答がこちら。
豊橋市内には前芝海岸吉前海岸大崎海岸の海水浴場がありました。長野からの利用が多くあり、観光地として知られていました。昭和40年代の埋め立て等の海浜分開発によって、ほとんどの海水浴場は利用されなくなりました。
おお!あったんだ!
しかも、豊橋が観光地とは!

前芝、吉前は豊川河口の両岸、大崎は南部の工業埋立地の近くです。

参考文献もお借りしたので、引用します。



まずは、前芝&吉前海岸から。

意外と最近2013年に、豊川流域研究会が実施した調査報告『戦後における前芝海岸および吉前海岸への来訪者観光調査』が出ていたので、まずはこちらから「前芝海岸・吉前海岸へ行った時の思い出(p7-8)」を引用します。
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  •  アサリがたくさん採れ、海苔の竹を抜いてアサリをかついで帰ってきた思い出がある。
  • トラックに2分3分板を積載する時、空洞を作り、その中に3~5名がもぐり込み豊橋まで行った。ポンポン船で海に出て潮の引くのを待つ間に食事をしたり、大人の方々は酒を飲み楽しく過ごした。特にスイカ割り、海水につけて食べた思いでは深い。
  • トラックの荷台へみんな乗り、山を下り豊川の街へ入る頃、ホロを下ろせと言って外から見えないようにして海岸に行った。海岸に真っ黒い子がいてビックリした。
  • 遠い所に出たことのない子供時代は大変楽しかった。ゆで卵にミルクキャラメル、おにぎり、今はなんともないことですが、その時代には遠足が楽しみにでした。
  • 下地よりポンポン船に乗りアサリ採りに行きました。家族も一緒に行き、とても楽しかった思い出です。水がドンドン満ちてきて怖かったことを子供ながら覚えています。
  • 会社の労働組合の主宰で立干し網に子供を連れて参加。たくさん魚を捕ってバーベキューを楽しんだ。
  • 海の家が立ち並び、浅瀬(遠浅)で波もなく泳ぐに最適であった。今のような海パンではなく、隠すのは極めて簡単な布切れであった。六尺ふんどしも利用した。
  • 近所の人たちや祖母と、小坂井駅で降りて歩いて潮干狩りに毎年くらい行きました。
  • 国府小学校でしたので春の遠足は潮干狩りでした。友達と自転車で潮干狩りに行ったこともありました。
  • 昭和41~42年頃、私と2人の子供、姉と2人の子ども計6人で吉前へ何となく歩いて行きました。潮が引いていたので海へ入って砂をかいてみたらハマグリがものすごく沢山採れてびっくりしました。帰りたくてもハマグリが重くて携帯電話の無い時代でしたので、家への道を途中まで歩いてから電話を借りて迎えに来てもらいました。
  • 町内の人に牛車に乗せてもらい海水浴に行った。約12kmあり、4~5時間かけて行った。
  • 飯田線下地駅で下車。20人乗りくらいの船で潮干狩り場まで行った。大漁で肥料袋が満杯になるほど採れた。
先日、豊橋だいすきカレッジで岩瀨博士からも縄文時代からの「ハマグリ」について話がありました。
昭和41~42年でもそんなたくさん採れていたのですね。

そして下地駅で下車、「船で潮干狩り場まで」ということは、豊川を川下りしたということでしょうか。なんとオツな。

続いて、昭和34年発行の「前芝村誌(p180-181)」より
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第五節 観 光
 前芝村の観光といえば、その地理的条件から海水浴、たてぼし等海に関係したものに尽きるといつてよかろう。海を離れての観光前芝はあり得ない。春の潮干狩り、夏の海水浴、たてぼし等、他の海水浴観光地に比較して、内容においては変化に富んでいるが、一方、交通上の不便さは観光前芝の発展をはばむ大きな癌といえよう。そのためか、海水浴場としての前芝は、戦前のそれと比較すると、発展していないばかりかむしろ後退しているといえる。

一、海 水 浴
 七月から八月にかけての短い期間ではあるが、この期に前芝を討れる(※原文ママ)客は戦前と比較して少なくなつたといわれる。その原因は、現在、豊橋からバスが日に二十数本発着されているが、元来、前芝海岸への客は飯田線が多いところからも考えると、むしろ小坂井からの夏季発着が必要とされるのではないだろうか。ちなみに、戦前は小坂井からバスが出ていた。もう一つは、他に海水浴場が沢山できたことである。三谷・大塚・大島がそれに当る。

 海水浴場としての歴史は古く、大正初年ごろから飯田線沿線の客足をひろつていたと考えられ、海水浴場としての施設たる桟敷は四軒あつたといわれる。現在の大長館、丸ま館(小松館)が出していた外、豊川、小坂井から一軒ずつ出店していた。その頃は毎夏、平均八千人から一万人程の客があつたと推定される。西浜から安藤飛行機の発走などの目新しい行事が展開された。海岸も現在より海水浴場としてのかたちを整えていた。戦後は一時中絶し、昭和二十三年ごろには、永楽屋・鈴木屋・つる屋の三軒であつたが、昭和二十八年(一九五三)の第十三号台風後は六軒に増加している。現在、桟敷の坪数は多いもので二十八坪、少ないもので十ニ坪で、西浜海岸の総桟敷坪数は約百坪である。使用客は、多い時で一軒に七十人から八十人、六軒で三百人程度といわれる。近年の年間入場数はざつと五千人から六千人と考えられる。来る客種は家族づれが多く、散財も少ないといわれる。
この「第五節 観光」は、「ニ、たてぼし」「三、旅館」「四、遊船組合」「五、潮干狩」と続きます。
蒲郡の「三谷・大塚・大島」の方が新しい海水浴場だったのですね。

そして「安藤飛行機」、飛行機!??調べてみるとこんな記述が。
こうして安藤飛行機研究所は1926年9月にようやく名古屋港~和歌山県新宮間に週1便の定期航空路を開設した.さらに1928(昭和3)年6月15日に新舞子~二見~蒲郡間にも定期航空路を開設した.これで名古屋~二見浦~蒲郡を結び伊勢湾,三河湾を結ぶ三角形の定期航空路を運航していた.

 - 水上機で定期航空輸送を始めたのが安藤飛行機研究所:伊勢湾と三河湾を結ぶ航空路 - 日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン - Yahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/1169558.html
1928年と戦前のため、戦後までこの航空路があったのかわかりませんが、それでも蒲郡発着の航空路があったとは・・・



続いて、大崎海岸について。

まず平成2年発刊「思い出写真集 ふるさと大崎」(p22,25)より
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第五章 大崎の海

 鯏の大崎か、大崎の鯏がと言われたほど、鯏を中心に漁業が行われた。良い状況を備えた浅海漁業はもとより、網漁や釣り魚などにも都合良き澪もあり、浅瀬もあって多種多様な幸が得られる良い海だった。

 その漁場も海軍の飛行場が出来て漁獲量が減った。終戦になれば元の地主(漁協組合員)に還されるものと思っていたが、既に東都製鋼、金指造船等が進出し、それを除いた残りの土地を払下げ、農地として使用するために井戸を掘り、排水して水利の便を良くした。

 漁協組合として、それ以前はこの航空隊を除外した地域の漁場で鯏や海苔、その他を取っていた。

 海苔も昭和三十一年から昭和四十年頃まで良く取れたが、梅田川の水質悪化のため、一等地であった梅田川河口も段々低下し、沖へ沖へとでて取る様になった。

 それから三河港造成の興論が高まり、遂に漁場を失わざるを得なくなった。昔の良かった海を思い、無念の涙を抑える事が出来なかった。
こちらは鯏(あさり)ですね。
そしてそう、実は豊橋にも飛行場がありました。
これについては、またの機会に。

もう1冊、昭和49年の「大崎漁業協同組合史」より

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第四章 海のいろいろと名産大崎のぬき
(一)海水浴場
 豊橋より西南弍里ばかり、歩兵第六十聯隊(現愛知大学)の門前より騎兵隊の兵営に至る坦々砥の如き大道を西南方に進むこと一里弱にして梅田川の河口に達す。夏季の候このあたり第十五師団乗馬隊の水馬演習をなすを見る。この南方にあたり渚近く老松の群れ立つあり海水清冽、夏季は水泳に適し汐干狩によろしく、船遊び釣、網可ならざるはなく、近時一小海水浴場をなすに至れり、樹下の茶亭五、六、輪魚見るべきなく規模小なりと雖も反って素朴の情趣は鮮魚の料理と相俟ちて暑熱を一洗するに足り、加ふるに遠く幡豆伊勢地方の峯巒を望み近く大崎大津の嶋々の風光を品隙して以て稚懐を遺るに足る。牟呂港より機船の便をからば僅か二十分時を要するのみ、浴場の南方高地は旧大崎城址として海岸散策の途次一杖を試みば懐古の情を満たすの資を得ん。」

 以上は大正の初期郡へんさんの「渥美」という小誌に載せられたものである。

 「私は少年の頃、父に教えられて度々大崎古城址の高台に立って、満汐のとき、またのぞきして海をみた。田原湾の防波堤のような本島の松は東から西へ細長くのびて海中に浮き話にきいた天の橋立のようだ。小さい帆かけ舟が遠く近く算えきれない。碧い海が西日をうけてキラキラと銀いろに光る。かっこよい平島の松の下を、牟呂から田原へ通うポンポン蒸汽が白く輪をえがく煙をポッポッと吐きながら通る。昔この辺を童浦(わらんべのうら)と言ったそうだが、正にその名にふさわしい平和な絵のような海だった。」以上は藻草争論中の一節である。大崎海水浴場は「北浦山」と俗称された船渡海岸である。群立する老松が海岸らしい枝振面白く松蔭涼風、数戸の(料亭)の海城館、海花亭など、二才鯛の刺身塩焼きなどかなりの人気を呼んでいた。大正四年大崎橋が架ると小池柳生橋の立花某という歯科医が「バス会社をつくり大崎への定期便となった。」このバス会社は海水浴場誘致のためいろいろと画策宣伝したので万を超す浴客もあり町から芸者の出張もあって三味線の音が流れた。

 今は馬の姿を余り見かけないが十五師団のある頃は騎兵三ケ聯隊、砲兵隊、輜重隊等の馬部隊があって、夏季は各々交替で馬洗い旁々水馬演習に来た。満汐時対岸磯辺側「青尻」からゾンプ間を馬で泳ぎ渡るのである。何百頭の馬がフンドシ一つの裸の兵隊さんを乗せて十数頭づつならんで河渡りは壮観以上で今は夢にも見れない図である。公害と言えるかどうか、兎に角前項のようなキレイな碧い海の天国を全く泥海化した港つくりは割りきれないものを感じさせる。
この「第四章 海のいろいろと名産大崎のぬき」は、「(ニ)もくひき」「(三)浅蜊」「(四)漁場の呼び名」「(五)海苔」と続きます。

大崎が「天の橋立のようだ」とは、意外も意外。
しかし、ここ大崎の地形の変化は、とても興味深く、先程の飛行場と合わせてまた取り上げたいと思います。

バス会社が「海水浴場誘致」をしたのですね。
芸者や三味線など華やかな様子が伺えます。

そして「何百頭の馬がフンドシ一つの裸の兵隊さんを乗せて十数頭づつならんで河渡り」、
なんと壮観な。一度見てみたかったです。



ほんの少し前まで、豊橋にも今はない「海の楽しみ」があったようです。

しかし、海には危険もあります。
豊橋でも市外でも、海に行くときは必ず気をつけてください。
夏の恐怖体験。大人も海でひとりで遊んじゃいけない。絶対にだ! - 愛知豊橋・長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/170819.html
では!