豊橋市議の長坂です。
生後34年経過したホモ・サピエンスの個体です。

さて、駒崎さんのこちらの記事から、子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)の接種について、議論が加熱しています。
数字を見れば、接種した方がいいのはよくわかります。
抜粋すると、
「副反応」はワクチン関係ないものも含めマックス広くカウントして、1000人に1人、つまり0.1%ということになります(略)
約9割が回復して、通院不要になっています(略)

子宮頸がんについては、年間約1万人が罹患し、約2900人が亡くなっています(略)

ワクチンの接種によって、65%~70%程度減らすことが出来ると報告(略)

とすると、もし全ての女性がHPVワクチン(子宮頸がんワクチン)を打っていたとしたら、年間1800~2000人の人命を救える(略)

一方で、HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)が原因である死亡事例はゼロです。
(正確にいうとワクチン接種後に何らかの原因で亡くなられた方は3名いますが、自殺などワクチンとは無関係な死因によると考えられている)
もうひとつ、日本における子宮頸がん予防ワクチンの接種は、当初推奨し、後に定期接種としたものが、「接種のあと原因不明の体中の痛みを訴えるケースが30例以上報告され、回復していない例もあるとして」「全国の自治体に対して積極的な接種の呼びかけを中止するよう求めた」という経緯があります。
2010年、厚生労働省は「ワクチン接種緊急促進事業」を実施して、対象ワクチンに子宮頸癌予防ワクチンを追加し、市区町村が行う接種事業を助成した。これにより、2013年(平成25年)3月31日までは、事業の対象者(おおむね中学1年生から高校3年生相当の女子)は無料もしくは低額で接種を受けられた。2013年4月1日以降は、予防接種法に基づく定期接種としての接種が続けられている。

2012年(平成24年)10月時点の調査では、接種率(接種事業対象者に対する接種済みの者の割合)は67.2%となっている。

日本の方針転換
しかし、2013年6月14日の専門家会議では、接種のあと原因不明の体中の痛みを訴えるケースが30例以上報告され、回復していない例もあるとして、厚生労働省は定期接種としての公費接種は継続するものの、全国の自治体に対して積極的な接種の呼びかけを中止するよう求めた。この判断は、医学的統計的根拠に基づかず、世論に寄り添う日本の政策決定であるとして非難されることになった。呼びかけ中止により、7割あった接種率は数パーセントに激減した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒトパピローマウイルスワクチン
ここまでが背景です。

ぼくらの年代だと、インフルエンザの集団予防接種が学校であったことを覚えている方もいると思います。あれも今はありません。あれと似ているかもしれません。



もしヒトがリスクについて合理的な判断ができるなら、
誰もギャンブルをやらないし、誰もタバコを吸わないし、誰もお酒を飲みません。

お酒についても年始に「がんに関しては安全な飲酒量などない」という記事が出たばかりです。
英国のがん研究所は、アルコールとの関係が特に指摘されているがんの種類として、口腔がん、咽頭がん、食道がん、乳がん、肝臓がん、大腸がんを挙げている。そのリスクは、ワインやビール、蒸留酒などアルコールの種類とは無関係で、飲む量についても「がんに関しては安全な飲酒量などない」と断言している。

アルコールとがんの関係が明らかに DNAを損傷、二度と戻らない状態に|ニューズウィーク日本版
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/dna2.php
それでも、ヒトはギャンブルをし、タバコを吸い、お酒を飲みます。

もちろん、個々人ではギャンブルもタバコもお酒もしないという方がたくさんいらっしゃいます。
しかし、総体としては行政(政府)が止めようとしても、止めるのは困難です。
過去に禁酒法(禁酒令)が出た時代・地域がありましたが、結果は・・・。



もちろん予防接種は、ギャンブルやタバコやお酒のように、ヒトの判断に支障をきたすような快楽や依存性を与えるものではありません。

しかし、「トロッコ問題」のようにヒトならではの葛藤が生まれ得る事象だと考えます。「トロッコ問題」とは、
つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。

功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/トロッコ問題
もしヒトが合理的に判断できるのならば、これは問題として成立し得ません。
なぜなら、全員が全員「一人を犠牲にして五人を助けるべき」と判断するからです。
ここにヒトがヒトたる「倫理」や「道徳」に基づく葛藤が生まれます。

また同じように「一人を犠牲にして五人を助ける」という場合でも、
スイッチによって線路の切り替えを行い五人いる線路から一人いる線路に切り替える場合と、
橋の上から、一人をトロッコの前に突き落としてトロッコを止めて五人を助ける場合とでは、
回答が大きく分かれる、ということです。



映画「シン・ゴジラ」の序盤でこんなシーンがありました。

自衛隊がまだ発達段階のゴジラに対して攻撃を行う直前、
避難していない民間人を見つける。
この報告を受けた総理大臣は、苦悩の表情を見せた後、
攻撃をやめる判断を下す。

この後、より進化したゴジラは幾多の人を殺し、
この判断を下した総理大臣すら殺されてしまいます。

もし、あのとき攻撃をやめなければ、
そのときにゴジラを倒せていたかもしれない。
しかし、劇中でこのとき攻撃をとりやめた判断を
批難する描写はありません(確か)。

フィクションではありますが、これが行政であり、
また映画の観客が望む対応であったと考えます。



子宮頸がんワクチンの予防接種は「性交渉を開始する前の学童期に接種するのが理想的」であるため、必然とその判断には保護者も関わってきます。

(因果関係が不明でも)接種した直後に娘が体調不良となり完全回復しない場合と、
接種しなくて、大人になって子宮頸がんを発症し死亡する場合と、
どちらにおいても保護者の葛藤、自責の念はいかほどか。

同様に行政においては、作為(何かをすること)と不作為(何もしないこと)では、
作為の結果の方が批難されやすいため、予防接種を奨めて体調不良者が出る場合(医学的な因果関係が不明でも)と、
予防接種を奨めずに、子宮頸がん患者が減らない場合では、
その責めを強く負われるのがどちらかと言えば、今のインフルエンザの状況を見ればある程度推察できます。



繰り返しますが、数字を見れば予防接種をした方がいいのはよくわかります。

だからと言って、数千人の予防になるから(医学的な因果関係が不明でも)数人の体調不良未回復者に目をつむるという議論をしている限り、たぶん並行線。

予防で助かる人も(と言ってもそ個々人は「予防接種したから発症しなかった」という自覚を持ちにくいのも、この案件を難しくしている要因であるけれど)、接種後に理由はわからなくても体調を崩してしまう人も、同じひとりの人間として見ていかないと前に進まない。

逆に行政に対して話すときには、
「仮に体調不良未回復者に1億円の補償リスクを備えるとしても、予防接種によって発症しなかった人が増えることで、それ以上に税収が増える/医療費が削減できる」
くらいシビアな話をした方がいいのかもしれません。

そもそも、行政にとってこのような補償リスクに備える行政向けの保険商品があってもいいのかもしれません(施設・道路等の事故に備える自治体向けの保険はあるようです)。



専門家・アカデミックの方々が、正確な数字と合理的な考え方を示してださることは僕も望むところです。

そして、それがそのまま実現できるなら、たぶんぼくらは必要ない。AIでいい。
そういう合理性と、ひとりひとりの感情にどうやって折り合いをつけていくか、というのが、きっとぼくらの仕事であると、最近なんとなく感じています。

「AIが合理的に考えて、地球のため人類の滅亡を選択する」

というのは、よく聞くSFで、
そこには確かに一定の合理性があるように聞こえます。

だからと言って、それではぼくたち(人類)にとっては本末転倒だし、
「確かに合理的だ」と到底受け入れられるものではありません。

ヒトは生来、合理的でない。
それがヒトであり、そこがヒトをヒトたらしめている、と思います。



余談ですが「トロッコ問題」、
自動運転車の実現可能性が高まってることもあり、自動運転車とトロッコ問題を絡めた研究が行われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/トロッコ問題
自動運転の実現の最後のハードルは、このトロッコ問題にヒトがどう折り合いを付けるか、
であるような気がします。

では!