豊橋市議の長坂です。

具体的には申しませんが、凄惨な事件が起きました。
容疑者の人となり、行動、経歴など、
さまざまな情報がメディアから聞こえてきます。

このような悲惨な出来事があると、
メディアはその情報の受け手と「違う」部分を
ことさら強調して、報じるように見受けられます。

例えば、前科があるとか、こういう性格だったとか、
周りの評価がどうだったとか、精神科への通院歴だとか、
インターネットへの接触が少なそうな方々が、
視聴しやすい時間帯の番組だと、こういうサイトを見ていたとか、
こういうSNSを使っていたとか・・・

このような報道の影響が今でも残っているのが、
過去のある重大事件の容疑者の部屋に、
山積みされた大量のビデオテープがあったことでしょう。

一方で、視聴者との共通点が、
ことさらに報じられることはほどんどありません。

例えば、ほとんどの日本人と同じ義務教育を受けて卒業したとか。
パンを食べるのが好きだったとか。

一方、逆に偉業を成し遂げた人には、
「ごく普通の主婦が」とか「どこにでもいる学生が」
といった枕詞を付けたがる。



「同質」なものを好み、
「異質」なものを遠ざけたいのは、
ヒト本来の習性です。
 赤ちゃん研究のカレン・ウィンさんは
 人間の生まれつきネガティブな面も発見していたそうです

 それは、人は自分と異質と思う人を罰したがる傾向にある、ということ

  彼女は赤ちゃんの前で
  縫いぐるみAがクラッカー大好き、いんげん嫌いといい
  縫いぐるみBがクラッカー嫌い、いんげん大好きという様子を赤ちゃんに見せる

  そのあと赤ちゃんにA、B、どちらの縫いぐるみがいいか選ばせる

 すると、ほとんどの赤ちゃんは自分の好みと同じ縫いぐるみを選ぶのだそうだ
 しかも、自分と違う好みの縫いぐるみを罰したがるらしい
 これは1歳以下の赤ちゃんですでに見られ、
 大人になっても変わらない
 自分と異質だと思う人への接し方は
 幼いときから決まっている、とのことです
http://amagomago.seesaa.net/article/450747022.html
これはあるNHK(Eテレ)の番組の一場面です。

太古の昔、集落を維持するため、仲間を守るため、
いちはやく「異質」なものを見つけ、
それに警戒をするのは、一定の合理性があった、
その帰結として、そのような習性がヒトに備わったのかもしれません。

「みにくいアヒルの子」も「スイミー」も、
当然のように「異質」なものを仲間外れにすることから、物語が始まります。
「異質」なものを仲間外れにするのに理由は書かれていません。

しかしヒトのその習性は、いつ自分に牙を向くかわかりません。



今、ぼくたちは「異質」なものを、
仲間外れにしたい習性と、ひとりひとりが、
自分の中で闘わないといけない。

なぜならその習性は「差別」と結びついているものだから。

先のNHKの番組、この回のテーマは「悪は根絶できるのか?」でした。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3452/1988026/index.html

ぼくが学生時代に教職の授業で習った「青い目・茶色い目」の授業は、
「差別」をつくりだすことが、非常に簡単なことを示しています。

この授業は1960年代にアメリカのある小学校で行われました。
1968年4月、アメリカ北西部のアイオワ州・ライスピルの小学校で人種差別についての実験授業が初めて行われました。
マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺がこの授業を始めるきっかけになったそうです。

小学3年生の担任であるジェーン・エリオット先生には、「子どもたちを差別意識というウイルスから守りたい」という切なる思いがありました。
クラスを青い目と茶色い目の子どもに分け、初日は「青い目の子はみんな良い子です。
だから5分余計に遊んでもよろしい」「茶色い目の子は水飲み場を使わないこと。茶色い目の子はダメな子です」 このように青い目の人は優れ、茶色い目の人は劣っていると決めて1日を過ごす。
対して、翌日は茶色い目の人は優れ、青い目の人は劣っているとして生活する。

目の色で子ども達をわけると、たちまちそこに社会の縮図が出来上がったと言います。
https://ameblo.jp/toratokotori14/entry-11454367939.html
授業はこんな感じです。
生徒達:仲間はずれにされます。

教師:なぜ?

生徒達:肌の色が違うから。

教師:その人たちの気持ちがわかる?

生徒達:・・・

教師:実際に経験するまでわからないでしょう。
   試しに目の色で人を判断してみましょうか。

生徒達:!?

教師:どう?

生徒達:・・・

教師:先生は青い目だから
   青い目の人が偉い事にしましょう。
   青い目の子はみんないい子です。

生徒達:ほんとに?

教師:ほんとよ。
   青い目の人はみんな頭がいいの。

生徒:笑
   じゃあ僕のパパは?

教師:君は茶色い目ね?お父さんも茶色い目なの?

生徒:そうです。

教師:あなた、前にお父さんに叱られて蹴られたって言ってたわね。
   青い目の人なら絶対にそんな事はしないわ。
   青い目のお父さんは子供を蹴ったりはしません。

生徒達:・・・

教師:青い目の人は茶色い目の人より優れているんです。

生徒達:・・・。


「異常」な事態を目の前に、
自分たちと「違う」ところを探して、見つけて、
それを聞いて安心するのは、
ヒトの習性に適ったものです。

というよりも、ヒトがそういう習性であるから、
そういう情報を無意識に求めるから、
メディアはそういう情報を提示するのでしょう。

けれども、それでは社会は前進しない。

自分たちと「違う」存在と認定して、安心する。
それでは、ここで社会が思考停止してしまう。

あるいは、その「違う」部分だけに焦点を当てて、
その部分だけを浄化する、規制するなど。



「異常」な事態では、異質な部分をことさらに取り上げる一方、
「差別」に対しては、ポリティカルコレクトネス的な潔癖さを求めるのは、
そこに通底しているヒトの習性が共通なものである故に、脳が混乱、疲れてしまう。

ぼくは、ぼくたちが人類として未来永劫、このヒトの習性と、
ひとりひとりが自分の中で闘っていかないといけない、と思っています。

そんな中「異なる」部分があまりに強調される報道に、
ぼくは少し疲れてしまっています。

では。